ケネス・バーク「特殊詩学、一般言語」 2
II
これで次の段階、特殊な詩学から一般的言語への問題に移る準備ができた。そこへの最短の近道は、少々離れてみることである。第一に、「動物性」と我々が「象徴性」と呼ぶもの(他にいい名称がないので)との相違に注目しよう。なにかを言うこと、なにかを読むこと、なにかを考えること、言われたなにかを聞くこと、等々、またそれに伴う文法、統辞、観念、意味は「象徴性」の領域にあるだろう。「動物性」は単なる身体的過程の領域である。成長、呼吸、消化などである。「動物性」の下には「物理性」がある。化学的過程としての動物の性質である。
単なる動物性から生じる類の目的がある。もっとも基本的なかたちに還元すると、食物、待避所、つがい、休息などへの欲望である。「象徴性」から生じるより複雑な込み入った目的がある。習慣、教育、政治制度、道徳的規範、宗教、商業、金銭などによって発達した目的である。それらはとてつもない言語化が必要とされる。例えば、通信販売のカタログに載ったものを入手する際に必要とされる生産や流通を確立するのに、どれ程の用語がつくりあげられねばならないか考えてみるがいい。それらすべての名づけはここでの「象徴性」のもとに含まれるだろう。そうした言語化や会話の他にも、「象徴性」は数学、音楽、彫刻、絵画、舞踊、建築等々の人間によるシンボル体系を含んでいる。
「象徴性」一般の観点から見ると、詩学は四つの基本的な言語的次元の一つに過ぎない。他は、論理或いは文法、修辞学、説得や諫止などによって協力を引きだす言語の奨励的使用、それに倫理である。
倫理の次元では、我々が意図するかしないかはともかく、言語を通じて自分の性格を様々な形で表現していることがあげられる。『文学評伝』でコールリッジは我々の論点を完全にあらわした考察をしている。「あらゆる人間の言語には、第一に、個人性があり、第二に、使う者が属す階級に共通の属性があり、第三に、普遍的に使用される語句がある」。
この発言をいまの論点に適用すると(言語の「倫理的次元」に関して)、各人間がそれぞれに違い、経験と判断の唯一無比な組み合わせであるという「個人的方程式」を言語が反映していると言える。かくして、ある意味では、各詩人は固有の方言を語っているとも言える。或いは、正反対の極に行けば、我々が「普遍的に」言語を使用しているという側面がある。つまり、我々はシンボル体系の使用によって発達した思考様式によってあらゆるものをとらえる動物である。名づけていないものについても、我々は少なくとも、「名づけうるもの」とは考える。————この点において、我々は環境との関係において、こうした間接的な中間段階を排除する動物とは範疇として異なる。(次の章の「唯名論的遮蔽幕」において、この問題をより詳しく扱う。ここでは一例を挙げておこう。国連のような制度は様々な議論に付されてはいるが、種としての人間に本質的な組織、議会の一例である。この点において、人間の苦境を方法的に論議しようとする制度はすべて、我々の種としての本性の普遍的な側面をあらわしている。)
個人と普遍との中間的領域について。我々は気づいていようがいまいが、またどのような分類も全員によって同意される必要はないのだが、必然的に、様々なクラスのメンバーとして自身をあらわしている。この点において人間の本性の開示は彼の前にある特殊な唯名論的遮蔽幕にかかっている。コールリッジが意図していたのは社会的階級だが、他の多くの分類が可能である。例えば、ポオの詩とそれを扱う詩学の言語は、詩人と批評家のクラスのうちに彼を含むだけでなく、その作品の多くが精神医学の分析に付されるような詩人と批評家のクラスに含めることを正当化するのではないかと問うことで議論を始めることもできる。
純粋にして単純な詩学について。この動機づけの次元には、それ自体における「象徴性」(あるいは「象徴的行動」)の行使、純粋な芸術への愛が含まれるだろう。シンボルを使用する動物であることが人間に特徴的なことなら、喜んで鳥が飛び、魚が泳ぐように、シンボルを操る者として力を揮うことに喜びを感じるだろう。かくして、ある場合においては、我々人間は美的な活動をとり、我々の本性に相応しく、シンボル体系を果敢に行使したがるだろう。こうしたことのうちに詩的な動機も見られる。
しかしながら、厄介な状況が次に生じてくる。例えば、単に劇を書くという満足のために、劇を書くとしても、その劇はなにかについてのものでなければならない。そして、劇を書く者、および潜在的な観客はある主題に他のものよりも興味を抱くことだろう。そうした主題は緊張や問題を含む————なんらかの葛藤を含む状況を使うことなしに劇をつくりあげることはできないから、たとえ劇の訓練として暫定的に始めたことであっても、その過程においてそうした緊張や問題をもつ主題を用い、潜在的な観客、普遍的な人類というものを考えることになろう。そうした緊張や問題を「解決する」様々な方法に巻き込まれることになる。そして、たとえその劇が詩的には単なる劇への愛情からつくられているにしても、問題の象徴的な解決に巻き込まれることになり、人々はそこで扱われている問題が劇作の動機づけになったのだと見がちになる。こうした観点から極端な心理学は芸術を生において実際に直面する様々な問題を紙の上で解決しようとする混乱した方法、単なる「補償」と見ることもできる。問題があまりに複雑であるので、そうした動機が様々な程度でどんな作家にもあらわれているのではないか、誰も確言することはできない。
要約すると、詩としての詩について言うべきこともあれば、言語一般の一例としての詩としても言うべきことはある。詩学の観点からすると、詩としての詩を説明するのが理想的であろう。しかし、そうした純粋主義的な試みは、それ自体、より広範囲にわたる派生が必然的であることに我々の注意を促すに十分である。このより広い範囲は、唯一手に入る説明として必要になることもあるかもしれない。詩学の言葉で諸問題の回答が十分であるところで、別の言葉での説明も同様に必要とされるような「動揺」があるとき、助けになることもあるかもしれない。
T・S・エリオットの詩の事例は、この種の問題について興味深い転換を示している。初期の「プルーフロック」の時期、エリオット氏が、まったく個人的な詩であっても、いかなる意味でも自画像ととるべきではなく、詩人によって職業的に選択された劇的な姿と見るべきだと主張していたときには、雑誌の批評家たちは一般的にこれらの規則を守っていた。しかし後に、『四重奏』のような宗教的帰依を歌った詩を書き始めたとき、これらの規則はいささか変更された。こうした後期の詩の姿勢は、詩的効果のために単に職業的に選択された劇的姿ではなく、激しい私的なドラマが広く一般的な共感をもってのぞかれる条件のもとで、エリオット氏と神との間で真率で、個人的な交流をしたものとして扱われたのだ。
同様に、批評家たちは、古典的なギリシャ劇に垂れ込める深く宗教的な運命の感覚にしばしば言及する。そこにはただ詩学だけではないより広範囲にわたる動機を含む次元があるだろう。だが、『詩学』のアリストテレスは、詩学固有の領域に還元されるような説明を加えている。私が言うのは、劇作家がプロットの進行を不可避的なものとしてあらわすときの劇的効果について彼が論じている箇所である。「こうして」と彼は言う、「出来事はひとりでに、あるいは偶然に起きたときよりもずっとすばらしく思われる。というのも、そうしたとき、原因は多く何らかの配慮によるものと思われるからである。」そして、彼は一例をあげている。ミティスを殺した男がミティスの彫像を見ているとき、像が倒れ男を殺す。こうした経緯は単に偶然のものではなく、運命的である。つまり、運命を信ずることには、職業としての劇作家を大きく超えて広がる次元が含まれている。しかし、詩学のみの観点からこの問題に取り組むとき、アリストテレスは、観客がこの模倣を見せ物師の巧妙な工夫としてではなく、超自然的な原因の現実のあらわれと感じることができるような、劇作上の仕掛けとしてしか運命を考えていないようだ。結局彼はこう言っているようである。プロットを効果的にするとは、それが不可避であるかのようにすることであり、それをすばらしくするには、運命に導かれた不可避性をつくりだすことだと。
あるいはここでまた、フロイトのオイディプス・コンプレックスを考えてみよう。心理学者は、これを詩学よりもずっと広い象徴の領域を含むものだとするだろう。そして、それが詩のうちに働いているのは、人間精神一般のうちに広く行き渡っているからだと言いがちである。アリストテレスの『詩学』では問題はまったく異なった取り組み方がされている。悲劇のもっとも主要な訴えかけの一つとして憐れみの喚起を大いに強調しているアリストテレスは、観客のうちに憐れみを引き起こすもっとも効果的な方法とは、敵同士や互いに無関心な者同士の戦いを描くことではなく、「近い関係の者が戦うような状況————例えば、兄弟を殺す、子が父を、母が息子を、息子が母を殺す————あるいはそうしたことが起こりうる場面を」描くことだとしている。フロイトが精神分析の言葉でギリシャ悲劇に取り組み、そのうちの一つの主題を特別扱いしたのに対し、アリストテレスは憐れみ(観客が「悲劇の喜び」を経験するためには不可欠であると彼が考えた感情)を喚起する四つの効果的な状況として父殺し、兄弟殺し、子殺し、母親殺しをあげるだけだ。
フロイトがアリストテレスのこの一節に対して言及したところを私はまったく見いだせなかった。しかし、ギリシャ悲劇で使用されているプロットの範囲全体に対して、アリストテレスの図式が唯一それに対処し得ていることは明らかである。しかしながら、詩学の範囲を超えたところに、オイディプスの神話を優先させるような特殊な根拠を与えようとする者もいるかもしれない。アリストテレスのリストが父親の殺人や息子の殺害など、アブラハムがイサクを犠牲にする旧約聖書の重要な物語や、新約聖書の基礎的な教義で、幾つかのパターンによって賛美される父親による息子の犠牲が除かれていることには留意する価値がある。私が「賛美」というのは、イサクやキリストの物語とアリストテレスが考察しているような状況とを区別するためである。
いずれにせよ、我々の中心となる論点はこうである。フロイトがオイディプス・コンプレックスの理論をソフォクレスの劇に具体化されている神話をもとにしているにしても、彼の考察は必然的に我々を詩学の領域から言語(あるいは象徴)一般の領域へと運ぶのである。後の章でフロイトの用語法については更に述べるつもりだが、それがその固有の領域でどれほど役立つとしても、フロイトの象徴的行動についての特殊な概念は、我々の目的に必要とされ参照されるものとは異なった範囲にある。