ブラッドリー『仮象と実在』 225

[自然、美しく敬慕に値する]

 

 我々の注意を再び自然、あるいは物理的世界に向けよう。観念とは力であり、目的を持ち、そこで動いていると主張されるだろうか。また、自然とは美しく、崇拝の対象となることは可能だろうか。後者について私は最初に考察することになるが、重要な混乱を見いだす。すでに見たように、自然とは多様な意味にとりうる(第二十二章)。全宇宙として、あるいは空間における世界として理解することもできるし、ずっと狭い意味に限定することも可能である。我々は最初に心的なものだけをすべて除外し、残りを抽象し――一次性質――それを自然と同一視することもできる。それらは本質となり、残りすべてが装飾的な形容であり、十全な意味において非物質的なものである。そのように理解されると、自然はごくわずかな実在しかないことを見いだされる。それは科学から要求された理想的な建造物であり、必要とされる作業仮説である。ある帰結、この虚構のある特殊な例を割り引くことは、厳密に物理的な説明によって意味されるものとなると付け加えることができる。しかしこのようにしていくと、大きな混乱が生じてくる。というのも、自然科学の対象は感覚されるものに充ち満ちた世界であり、自然の本質は一次性質という貧弱な虚構にあるのだとすると、信じられる虚構は観念ではなく堅固な事実となる。自然は説明されないあいだは官能的な輝きを放っているが、説明されると取るに足りない抽象物に割り引かれることになろう。一方において、一次性質のむき出しの骨組みの形をした本質――最終的な実在――があり、他方には、我々の視野の前に際限なく広がる限度のない豊富な生が残ることになる。これらの両極端が単なる曖昧さによって、あるいは盲目的な心的衝突によって混乱し、結合する。もし説明が諸事実をなんら性質づけられていないものの形容に還元するなら、すべての関連は不合理なものとなり、その過程は事実を我々から奪い去ることになる。しかし、もし一時的な本質が結局のところ性質づけられているなら、その性格は変容している。具体的なものを還元する説明は、抽象的なものを豊かにし個別化することになり、我々は哲学と真理に向けての道を出発することになろう。しかし、現在の事例において、後者の結果については何の問題もあり得ない。それゆえ、我々は知的に見解を統一しようとはせず、動揺のうちに終わらなければならないだろう。自然は、一方においては、その実在が一次性質のなかにむき出しにあらわれている。他方において、それは我々の共感に訴えかけ、我々から驚異の念を引きだす際限のない感覚的生の世界である。それは愛される対象であり、詩人によって、観察する自然学者によって生きられる。我々が自然について語るとき、我々は両極端のどちらの観念を持っているかわからず、なにが理解されているのかもわからない。事実、我々は場合に応じて、一方の極端から無意識のうちに逆の極端へと進んでいる。

 

 簡単にこの結果を我々の前にある問題に適用してみよう。自然が美しく敬愛すべきものであるかは、自然がとる意味に完全に依存しているだろう。もし自然の本当の実在がむき出しの一次性質ならば、私はそうした問題が真剣な議論を必要とするとは信じられない。一言で言えば、自然は死んでしまうだろう。それはたいていの場合ある種のシンメトリーをもつことができる。その広がり、我々の弱さや必要との実際的な関係によって、我々のうちにある種の感情を喚起することもある。しかし、そうした感情は、第一に、完全に我々のうちにあるものである。それらは合理的に適用されるわけでも、自然を性質づけるものとされるわけでもない。第二に、そうした感じは、我々の心のなかで、崇敬の形を取ることはほとんどない。それゆえ、自然科学の対象としての自然は、美しいとして肯定されるか、神的なものとしてあらわれるとき、我々はすぐに答えを得ることができよう。もし対象の実在が一次性質に限定されているなら、だれも我々が述べた主張を擁護してくれないことは確かだろう。知覚しうる世界の全体とその栄光とが真に実在であり、そしてこの輝きと生とが自然のまさに本質であるなら、困難は二つの方向に生じることになろう。第一に、この主張は物理科学によって認められる。物理的なものは少なくとも物質が実在と等しいものとして採用される。有機体と魂との関係は物理的対象の活力に含まれねばならない。最初の難点はこの点を押し進めることにある。第二の難点はこの点が到達されたときにあらわれるだろう。というのも、そこまで行くと、それ以上行くことを拒むことを正当化しなければならないような場所が存在するからである。なぜ自然は知覚しうる世界に限定されねばならないのだろうか。もし物理的なものと「主観的な」ものとがある程度実在を形づくっているならば、どんな原理をもってもっとも高次な、もっとも霊的な経験を締めだすことができようか。画家、詩人、賢者が見て、かつ創造する自然はなぜ本質的に実在でないことがあろうか。しかしこう考えると、自然は霊的なものと物質とで全体的な宇宙となることになろう。我々の主要な結論は次のようにならなければならない。精神に物質とはなんであるかはっきりしないときに、実在がなにから成立するのか決定できるような原理が与えられていないときに、自然科学の対象に関して問題を掲げることが無用なのは明らかである。

 

 しかし、この混乱から立ち戻り、再び疑問形に、より合理的な根拠に立ち戻り、より簡単な答えを得ることに努めよう。自然の特殊な特徴や美しさの限界には私は入っていくことはできない。そして、どれだけ、またどういった意味で、物理世界が宗教の真の対象となるか論議できない。それらは私の著作の限界を超えてしまう特殊な研究である。しかし、自然が美しいにしろ崇敬すべきにしろ、そして真実を有しているにしろは配分されているにしろ――一般的にそうしたことを尋ねられれば、我々は肯定的に答えることができる。我々は自然が単なる物質としてみるのであれば、便宜上の抽象であることを見てきた(第二十二章)。二次性質を加え、身体と魂との関係を含み、より自然を具体的なものとすれば、より実在になる。(1)感覚的な生、暖かさ、色彩、匂い、音の調子などそうしたものなしには自然な単なる知的な虚構に過ぎない。一次性質は科学によって要求される構築物であるが、二次性質と離れては、それらは事実として生命をもたない。科学は世界を解釈するために戻ってくる黄泉の国を有しているが、その住人は単なる影に過ぎない。そして、二次性質が加わったとき、自然はより実在に近いものとなるが、いまだ不完全である。その子供たちの喜びや悲しみ、感情や考えなど――どうしてそれらが自然の実在になんの役割も演じていないといえよう。精神が原則によって制限されておらず、限界が不条理なものでないなら、他方で、我々の主要な原理は自然はより十全なものとなれば、より実在となると主張する。この同じ原理は我々を更に先の結論まで運んでいくだろう。自然に目をとめた魂がそれによって喚起される感情は、少なくとも部分的には、自然に関連し、自然の属性ととらねばならない。もしそこに美が存在しないなら、もしその感覚がどこか自然の外側に向かうことがあるなら、結局のところ、なぜ自然にはそうした性質が存在するのだろうか。そして、感情的な調子が自然を性質づけることがないなら、どうしてまたなんの原理でもって我々はそれをどこか別のところに帰するのだろうか。もし我々が物質をそう見なすならば、例外なくあらゆるものは「主観」にあることになる。そして感情的な調子は、このことだけでも、自然から除外できない。それでなくとも、なせそれは真正な性質をもつ実在を有していないのだろうか。私自身について言えば、私は同じ原理に従わねばならず、新鮮な帰結を得ることができる。我々が住み愛している自然は実座の自然である。その美、恐怖、威厳は幻影ではなく、本質的に自然を性質づける。それゆえ、我々の最上の瞬間において我々が信じざるを得ないのは文字通りの真実である。

 

 しかしながら、この結論は別の側面からいくらか限定する必要がある。あらゆるものはそれらが結ぶ関係によって成り立っているのは確かである。限定が増加すると事物がより以上に実在となることは確かである。他方において、十全に決定されているものは絶対そのものだろう。実在が増加することは自己を超えていく道筋を含む。事物は拡大によってそれを超える全体の単なる要素となる。最終的に、すべての部分や相関する全体は異なった性格を保つことをやめる。我々はこのことを自然の実在を考慮する際に忘れるべきではない。実在が次第に増大することによって、自然がそれ自体として吸収されるような地点に達する。あるいは、自然について反省したときのように、あなたの対象は次第に宇宙や絶対と同一視されることになる。我々が自然に心的生を付け加え、霊的なものを配分しはじめると問題が生じ、我々は厳密な意味での自然を扱うことをやめる。事物の王国から遠く離れた自然からより高次の統一のなかの抑圧された要素としての自然へとどこに向かっているのだろうか。それらの探求が哲学で要求されるものであり、その結果は自然の性質についてより明確な結論に導くことになろう。私はここではそれをほのめかすことしかできないが、結論は主として、独立して主張されることになる。なにものも絶対において失われることはなく、すべての現象は実在を有している。観察者、詩人、画家によって研究される自然はその感覚的、感情的十全さにおいてまさしく実在の自然である。それは多くの点で厳密な物理科学の対象よりも実在である。というのも、その実在の本質が一次性質にある世界として、自然は実在と真理の高い程度をもっているのではない。それはある種の目的のためにつくられ要求される単なる抽象である。自然科学の対象はこの骨組みを意味しているか、二次性質で血と肉を与えられた骨組みを意味している。それゆえ、自然が我々に喚起する感情を考慮するまえは、我々がどういう意味でその言葉を使っているかについて知っておいた方がいいだろう。しかし自然の境界は二次性質によってはほとんどひくことはできない。あるいは、もしそれを引いたとしても、任意に、また便宜に従ってひかなければならない。この根拠においてのみ心的生活を自然から除外することができ、そうでなければ排除は維持しがたい。そして自然の美的な性質を否定すること、怖れや敬虔を引き起こすものを拒否することは、再び任意のものであることになろう。それは単に作業仮設的な意味合いで導入された分割であろう。抽象は非実在であるという我々の原理は、我々を着々と上方へと動かしていく。最初に単なる一次性質を拒絶させ、そして最終的には我々のより高い感情を伴った自然へ帰することになる。この過程は自然が精神に吸収されるまで止むことは可能ではなく、、各過程の段階において実在が増すことが見いだされる。

 

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*1:(1)私は知覚されないものを自然の部分として取り戻し、性質づけをし直す必要があると考えているわけではない。このことについては、第二十二章、二十四章で十分に論じた。