ブラッドリー『仮象と実在』 226

[自然における目的――形而上学の問題ではない]

 

 このより高次の解釈と自然の結果的な超越は上述したようなもうひとつの論点へと我々を導く。有限な魂において除外され、意志において除外されると、目的は自然において働き、観念性であり、別の意味で言うと、作業力として働いているのだろうか。こうした観点が美学、あるいは宗教哲学においてどれだけ許されるのかは私は追求しないだろう。しかし、物理的世界を空間における単なる現象の体系だと考えると、形而上学的な根底において、不十分な機械論的見方を取ることにならないだろうか。どのような形で(もしあり得るとするなら)我々は自然についての哲学を擁護すべきだろうか。この難問について、非常に簡単だが述べておこう。

 

 機械論的な見方は真理の十全な言明としてははっきりと不条理である。そのように見られた自然は(すでにいったように)観念的であることをやめないだろうし、その観念性はどこかそれ自体の外側にあることになる(第二十二章、二十三章)。作業場の観点として厳密にその場をとどめたとしても、私はそれを主張することはできない。しかし、ひとつの問題について、私は疑問をいだいていない。あらゆる特殊科学はそれ自体の方法に従う自由をもっておらねばならず、もし自然科学が機械的ではない説明をすべて退けるなら、それは形而上学の問題ではない。私自身についていえば、その詳細については無知だとしても、それらの科学は自分のなすべきことを理解していると想定する。しかし、特殊科学の範囲を超えた主張がなされると、形而上学者は反論できる。抽象は実在ではないこと、虚構の働きは有益な真理の断片にしか過ぎないことを主張できる。またもうひとつの点についても聞き入れてもらうよう主張できよう。ただひとつの厳正な説明の原理を採用し、もし現象が説明できるなら、それはひとつの方法によって説明されねばならないと主張されたとすると――それはもちろんどんな科学においても力をもつ。しかしすでに説明された、あるいは説明可能とされる現象を主張することと、ある点、あるいはある領域ではまだ明確な説明がなされていない、そしておそらくは説明の試みさえ行われていないところがあることとは別のことである。この限界を超えた踏み外しや小旅行について自然科学にはなんの権利もない。しかし、境界内のことについてはあらゆる賢人たちがそれを神聖なものだと考えるだろう。そして自然における目的をどう扱うかという問題は、私の判断においては、形而上学は触れずにおくべきである。

 

 それでは形而上学に残された実質的な仕事、その達成が自然についての哲学と呼べるようなものは存在するのだろうか。簡単に仕事として要求されるものを指摘してみよう。形而上学にとってあらゆる現象は実在の程度をもっている。我々は完全あるいは個別性の観念を持っている。そしてどのような存在の形であれ、この観念をより完全に実現しているものを見いだし、それを存在の天秤に位置づける。この天秤においては(すでに見たように)、低い方がその欠点を改良し、それ自身を越えてより高次のものになる。目的、あるいは絶対的個別性はまた原理でもある。より低次の段階において検証を受け、それらがより十全な全体のなかに含まれると、原理は実在のなかで成長する。端的に言うと、形而上学はある意味を完璧と進行のなかに組み入れることができる。それゆえ、諸科学から多様な種類の自然現象を受け入れたとしても、もしそうしたものが長所と位階の秩序のなかにあり、高次の段階で低次の段階における欠点が改良されていることを指摘でき、いかに低次の段階における原理が高次の段階においても持ち越されているか――形而上学が自然の解釈に寄与することは確かである。私自身はそうした仕事を援助することさえまったくできないが、私にはどうして、あるいはどういう根拠でそれが非科学的だと考えられるのか理解できない。全能の体系を身にまとうことなど不条理なのは間違いない。不条理よりも悪いのは細部や献身的な特殊性の狭さを軽蔑することである。しかし、科学の結果に体系を与えようとする試み、価値のある真の原理にしようとする企図はほとんど非合理的であるはずはない。