ブラッドリー『仮象と実在』 227

[自然の哲学とはなにか]

 

 そうした自然の哲学は、少なくともそれ自体真であるなら、物理科学の領域に入り込むことはできない。というのも、端的に言って、それは全体的に、あらゆる形式において、起源について思弁をすることを慎むだろうからである。どのように多様な進歩の段階が時間において生じるか、それらが従うのはどんな秩序あるいは諸秩序か、個別の事例の原因はなにか、それらの探求は、それ自体としては哲学の関心とならないだろう。世界における進化と進歩の観念は時間的なものではない。それゆえ、発展や秩序についてのいかなる問題も科学とのあいだで争いを引き起こすことにはなり得ない。「より高い」と「より低い」は常に基準と目的を含むが、哲学では位階を明示するためにのみ用いられる。自然科学は現在のように自由にそれを用いて、あるいは誤用して、好きなように、便利な意味合いで用いることが許される。哲学にとって進歩とは決して時間的な意味合いではなく、少しでもそうした意味が見いだされるようでもなんら意味を持ち得ない。この簡単な発言でもって私は重大な注意に値する問題を去らねばならない。

 

 完全な哲学では、現象の全世界は進歩として提示されるだろう。時間の継起に沿ってではないが、それは原理の発達を示すだろう。経験のあらゆる領域は絶対的な基準によって測られ、相関的な長所と短所によって位階が与えられるだろう。この秤では、精神は生命のない自然からもっとも離れたものとなろう。そしてこの秤の各程度を登るごとに前の程度からすれば多い特徴を見いだすことになる。精神の観念は機械仕掛けと直接に対立するものといえる。精神は多様なものの両極端が消え去って、多様性が統一されている。ここでの普遍的なものは諸部分に内在しており、その体系は外部にあるのでも、それらのあいだの関係にあるのでもない。それは相関的形式を越えており、より高い統一に吸収され、諸要素と諸法則の分断のない全体をなしている。この原理は最初から単なるメカニズムの一貫性として示されているので(1)、我々は自然は精神によって実現され変容されるといえる。しかし、付け加えておかねばならないが、それらの両極端は事実としては存在しない。死んだメカニズムの領域は抽象行為によって切り離され、そこは抽象だけから本質的に成り立っている。他方において、純粋な精神は絶対のなかでなければ実現しない。それは存在の範囲にそのものとして決してあらわれることはできないし、十全な性格を示すこともない。すべての程度が同時に存在し吸収されている全体にのみ完璧と個別性は属している。この存在の実在はそのものとしては現象のなかのどこにも存在しない。それは自身においては不可能な進化と進展のなかに入り込んでいる。

 

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*1:(1)機械論的法則の欠点と部分的な代用は第二十二章と二十三章で触れておいた。この論題についてもっとよく扱うこともできただろう。