一言一話 131

 

修善寺の旅館新井と虚子、斎藤茂吉小津安二郎『お茶漬けの味』

 

 新井は虚子の定宿でもあった。長編小説「お丁と」が「国民新聞」に連載される時、虚子は私たちのように毎日一回ずつ書かずに、全部この宿屋で書き上げたと聞いた。大正二三年ごろの話である。

 虚子の部屋は、――大体この新井という宿の大ざッぱな略図を書くと、一番奥に大きな池があって、その池の右側に上下部屋がある。その池の水が一度そこで深く淀んで、それから細い流れになって流れ下って行く。その上に長い屋根のある廊下があり、流れの左右に幾つか部屋がある。池にも、流れにも、大きな緋鯉が遊弋していた。茂吉五十歳の「春日五種」の中にある

  しげみよりわきかへりくる山水の浪に入りゆきしあかき鯉くろき鯉

 は、おそらくこの宿での詠であろう。この水の上に屋を重ねている新井の眺めの美しさを心行くまで描写したのは、小津安二郎の「お茶漬けの味」に及ぶものはあるまい。あの美しい女友達ばかり三四人で酒盛りをする部屋、女主人公が或る思いを込めて見おろす池の鯉、おそらくあれは虚子がその昔「お丁と」を書いた部屋あたりだろうと思う。

 

といっても、にわかに『お茶漬けの味』のその部分が思い起こせない。