ブラッドリー『仮象と実在』 228

[進展、絶対にそうしたものがあるか]

 

 この最後の発言の真理については議論があるかもしれない。最終的に、また全体として宇宙になんらかの進展は存在するのだろうか。絶対はあるときより別のときのほうがより良かったり悪かったりするのだろうか。進展も衰退も完璧と両立不可能なので、答えが否定になるのは明らかである。もちろん、世界には進歩が存在し、退化もまた存在するが、全体が先に進んだり後戻りしたりすることは考えられない。絶対は数字を欠いた歴史を含んではいても、それ自体の歴史は持っていない。それは進歩や退化の話のように、ある有限なものが与えられて出発しそこに基礎づけられる。それらは時間的現象の領域の部分的な側面でしかない。その真理と実在は広がりと重要性において大きく異なるかもしれないが、最終的に、相関的以上なものに決してなることはできない。人間や世界の歴史は前に進むのか後ろに行くのかという疑問は形而上学には属していない。というのも完璧なもの、真に実在なものは動くことができないからである。絶対は季節はないが、葉や果実や蕾はすべて供えている。(1)地球のように、それは常に夏と冬があり、決してないとも言える。

 

 

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 こうした観点は、もし我々を落胆させたとすれば、誤解されている。それが実際的な信念と衝突するというのは単なる我々の間違いである。もし善の世界のなかで、相対的な真理をもち、全体にのみ適用される観念をもって直接的に割り込もうとするなら、その誤りは確かにあなたのものである。絶対の性格そのものは、相対的なものを持つことはできないが、相関的なものは何者に動かされることもなく、絶対のなかに場所を得ている。あるいは、実際的な領域に自身を限定するなら、その基準を宇宙に適用することを主張するだろうか。もちろん我々は時間における偶然、個人的な限界における実践を望んでいる。よりよくなる能力を要求し、より悪くなることも想定する。もしそうした特徴それ自体がすべての事物を性質づけ、究極的な実在に適用するなら、この著作の主要な結論は自然に誤りだということになる。しかし、私は少なくともそれを合理的にする試みがなされるまでは、採用できない。そして多くの事例において、偽りだと思われる見解に敬意を寄せることはできない。もし進歩が相関的以上のものであり、単なる部分的な現象を超えたものであるなら、我々のなかでもっとも共通だとされる領域は捨て去られることになる。進歩が最終的かつ究極的であり、事物に関する最終的な真理であるとするなら、あなたはキリスト教徒ではあり得ないだろう。私はこの考察をもちろん、私自身の議論のためではなく、他の人物の不整合を示すために主張している。道徳的見解を絶対的なものとし、自分の立場を実現してみよう。あなたは単に不合理ではなく、考え得る限りのあらゆる宗教を破ることになるだろう。単なる偏見に従うことによってもこうした状態はもたらされる。

 

 哲学は我々の生の多様な側面を正当化するべきであることに私は同意する。しかし、ある側面が絶対であるなら、それは不可能である、と主張するだろう。生における我々の姿勢はたゆみなく移っていき、、その各々が最上のものであることを許されるなら、満足したものとなる。宇宙の進展を否定することは、確かに、道徳をあるがままにとどめておくことである。人間は自己や世界を自分の努力によって(そう望むことはできる)、あるいはなにか特別な事例においては(自分がよく知っている)最善を尽くすことで、進展させようとする。宇宙はその限りにおいては、彼の失敗を通じてより悪いものとなる。成功を通じてよりよいものとなる。そして、もしそれに満足しないで、宇宙を大きく変えることを要求するなら、少なくとも理性や宗教や道徳を持ちだすべきではない。というのも、宇宙の改善や衰退は、ナンセンスで意味がなく、冒涜的なことのように思えるからである。他方において、我々の星に住まうものの進歩や維持は形而上学には関係がない。おそらく、道徳ともほとんど関係がないと付け加えられるだろう。こうした信念は我々の義務を変えることはできない。我々がそれらに取り組む風潮、そこでつくりだされる差異はまったく進展とはなり得ない。もし我々が失意によって弱まることがあるにしても、愚かな熱狂や害のあるうわべだけの言葉で事を急ぐことができないのも同様である。しかし、ここはそうした議論をする場所ではなく、我々は絶対に進歩を認めることができないと知ることで満足できよう。

 

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(1)このイメージはストラウスから借りたものだと思う。