ブラッドリー『仮象と実在』 229

[死の後の生]

 

 この章をこれまでと近しいある問題について少々述べることで終わることにしよう。通常、魂の不死性といわれているもののことである。いくつかの理由からこの話題について私は沈黙を守っていたが、ここでの沈黙は誤解を招くことになるかもしれない。第一に、将来の生が意味するところを正確にいうことは容易ではない。人格的な継続の期間は明らかに終わりないものとは受け取れない。そしてまた、どのような意味で、またどれほど生き残るものが人格的なものでなければならないかについても示すことは容易ではない。ここで推測できるのは、意味されているのは我々のいまここでの生と同一であることを意識しているものが死後も存在するということである。この持続は意志しない消滅や早すぎる死という観念を取り除くに十分なものとして受け取られるに違いない。我々は様々な理由から継続を望んでいるように思え(もし望むことができるなら)、それを見定め、混乱を取り除くことは興味深いことかもしれない。(1)しかしながら、まずその可能性の問題を片付けねばならない。

 

        

*1

 

 魂の不死が不可能なように思われる一つの意味がある。我々は宇宙が増大することはできないことを思いださねばならない。常に新しい魂が供給されて、そのどれもが滅ぶことはないのだとすると、最終的には解決することのできない難問に乗り上げてしまう。しかし、こうした意味で教義を保持することはまったく不必要だと私は思う。もし問題を一般的にとれば、死後の生の可能性を否定することはまったくばかげたことだろう。第一に、身体が魂を必要とすることを証明する方法はない(第二十三章)。そして身体を欠いている魂が(我々の知る限り)より死に従属しているとしても、明らかにここで我々は無知の領域に入り込んでいる。そして、この領域において、個人の継続が不可能だということは単に非合理なように思える。たとえ我々が身体があらゆる魂に本質的だと取ったとしても、その身体が我々の日常的な物質からなっているにちがいないと主張しても(我々にはできないが)、同じ結果になる。ごく普通の粗雑な物質主義を根拠にしたとしても未来の生は可能である。(1)どれほど長いあいだの間隔があった後では、我々と同じような神経体系を十分にもったものが発達するかもしれない。この場合、記憶と個人的同一性が生じるに違いない。その出来事の可能性がどれほどあり得ないことかはお好みに任せるが、少なくともそれが不可能であるとする根拠は見いだせないだろう。さらに先にまで進める。そうした無数の身体が継続してではなく、共に同時に存在することも考えられる。しかし、もしそうなら、個人的な継続が単一のものではなく複数のものであっても、それをいくら拡大したところで無駄なことで、我々の運命は守られる。上述のような様々な方法によって、未来の生が可能であることは明らかであり、他方において、そうした可能性は十分な価値がない。

 

 

*2

 

 事物は実在として知られている本性と矛盾することは絶対に不可能である。(1)我々が実在と取る真の原因として見いだすなんらかの観念が衝突するとき、相関的に不可能である。第一に、事物は、それがまったく意味のないものでない限り、可能である。それは宇宙に属するにあたってなんらかの積極的な性質をもっているに違いない。そしてそれと、それに破壊的な付加物を加えたものとを同時に取り除くことはしてはならない。さらに、事物はその意味が真と取りうるものと多くの矛盾が含まれていない限り、より可能である。他方において、我々は蓋然性が大きくなるほど可能性も多くなると考える。「蓋然性は生の導き手である」と我々はまさしく語られる。端的にいって、我々が知りたいのはある事物が単にまた稀に可能であるかどうかではなく、我々がそれを予期し、それ以外のものを予期しないのにどれほどの根拠があるかである。

 

 

*3

 

 現在のような事例では、もちろん、我々は偶然を定めようと希望することもできず、それというのも、知られていない価値の要素をどうにかしなければならないからである。そして、蓋然性にとっては、未知のものには異なった種類がある。最初にはまったくの無知があり、それは可能ではない。それは割り引かれないものとして扱われる。次になんらかの可能なものがあり、その十全な性質は隠されているが、他のなんらかの「出来事」に対するときに、その広がりと価値は明らかである。この限りにおいてはすべては単純である。しかし、我々は未知のものを他の二つのより問題のある意味で扱わねばならない。我々がそれ以上なにも知らない、それ以上の根拠をなんら見いだせない単なる可能性を意味しているかもしれない。あるいはまた、未知のものは我々には詳細にわたって特殊化できないが、可能な出来事の大きな多様性を含んでいるとも判断できる。

 

 我々はすぐにこうした割り切った区別の重要性を見いだすだろう。身体のない魂は、それが意味のないものではないので、可能である、あるいはなんらかの意味合いで不可能として知られている。しかし、それ以上の付け加えられるような理由を見いだすことには失敗する。次に、身体のない魂は不死なのだろうか。あるいはまた、死後、なぜ我々が特別に、身体のないまま継続するのだろうか。未来の生についてのもともとあるわずかな可能性はこうした考察によってもそう増えるものではないように思われる。また、我々が身体を本質的なものと捉えても――つまり、なじみのあるあるいはなじみのない物質からなる身体――この根拠において、死後における人格の継続についての我々の偶然の機会はなんであろうか。ここで未知のものに訴えることもできるし、我々の知識がなにもないように思えるとき、「なぜこの出来事がその反対で、対立するものであってはならないのか」と主張することもできる。しかしこの質問は錯覚に基づいており、私は先に述べた区別について主張せざるを得ない。未知の領域では、我々が確かに特殊化できず、偶然として提示するが、別の意味では、領域はまったく知られていないわけではない。(1)

 

 

*4

 

 可能性の組みあわせのなかで、我々の知る限り、その半数が死後の生に好意的てあると言うことはできない。というのも、現実の経験を判断すると、組みあわせの多くは不都合なものだからである。そして、我々の経験の外部にあるものはその性格が非常に異なるかも〈しれない〉にしても、このことに対する我々の判断は我々が知ることのできないことによって影響を受けるに違いない。しかし、もしそうなら、組みあわせのすべての多様性は非常に大きなものであるので、継続的な生に都合のいい判断は、多様であれ単純であれ、小さなものに収まらざるを得ない。もし我々がこの未知の領域を扱うとすれば、こうしたことが我々の結論となるだろう。しかし、、もしそれを扱わないとするなら、未来の生の可能性は、こうした根拠に基づいて、まったく未知のものとなろう。もしそうなら、我々はそれをまったく考慮する権利をもたないことになる。私の心にある一般的な結論は簡潔に言うとこうである。死後の生の偶然の機会を一緒にまとめ上げたとき――身体がなく、また多様なものとして具体化されるものと受け取られた生――その量は大きなものではない。敵対する蓋然性がかくも大きく思えるとき、私の精神にある断片は考慮できないことになる。繰り返しになるが、我々の結論をまとめてみよう。もし我々がまったくの無知に訴えるなら、未来の生は意味がなく、まったく可能なものではなくなってしまう。あるいは、この最悪の極端を避けるとしても、未来の生は単なる可能性になるだろう。しかし可能性は、この意味においては、無限の宇宙と対面するにはなんの助けにもならない。その限りにおいて、価値もほとんど考えることはできない。他方において、もし我々が自分がもっていることを知っていることを使用することを許すなら、我々が判断する根拠のすべてをもって未来の生を公正に判断するなら、結果は大きく異なることになろう。そうした根拠のなかで、継続に利点がある部分を見いだすことは確かである。しかし、その最高の部分を取りだしてみても、その部分は小さいように思える。それゆえ、未来の生は決定的にありそうに思えないととられるに違いない。



 しかし、このようなあり方では、問題は正確に扱われてはいないと反論されるだろう。「あなたが述べたような根拠においては、未来の生はありそうにないかもしれない。しかし、そうした根拠は実際には主要な点を外れている。未来の生についての積極的な証拠は我々の精神にかかっている。そしてそれは、抽象においてはありそうなことだという議論とは独立したものである」と主張されるだろう。この反論は公正で、私の答えも平易にして単純である。私は実証的な証拠については無視するが、それは、私にとってそれは真の価値がないからである。未来の生を示す直接的な議論は、単に可能でないだけでなく、真であっても私には無益に思える。一般的な蓋然性につけ加えることは私の精神には取るに足らない。そうした議論を詳細にわたって検証しないでも、いくつかのことをつけ加えることができよう。(1)

 

 

*5

 

 繰り返すことになるが、哲学とは自然のあらゆる側面を正当化しなければならない。我々が主として切望するものは満足を与えるに違いということを私は認める。しかし、あらゆる種類のあらゆる欲望がそれ自体として満足されなければならない――それはまったく異なる要求であり、非合理であることは確かである。いずれにしろ我々がこれまで行ってきた議論の結果とは対立する。限定されたものの運命は、至るところで見たように、達成するべきであるが、決してそれ自体として全体的にではなく、それ自らのやり方でというのでは決してない。未来の生というこの欲望についていえば、なにがそれほど神聖視されているのだろうか。どうしてその達成が我々の本性の原理そのものに含まれているだろうか。いいや、それ自体のなかには道徳はほとんどないし、宗教的なものもまったくないのではなかろうか。私は苦痛がなく、常に快適であることを望み、それが無限に続くことを願う。しかし、私の願望の文字通りの充足は宇宙における私の立場と両立不可能である。それは私の本性と折り合いがつかず、それゆえ、私の本性が許す限りでの満足で納得しなければならない。そして、この点については、なんの根拠もない要求を受け入れるものではないので、哲学は能力がないと主張する。

 

 しかし、未来の生に対する要求は、すでにいわれているように、重要な仮定であり、その満足は我々の本性のまさしく本質に含まれている。我々の宗教や道徳がそれなしには働かないということを意味するのであれば――我々の道徳や宗教にとっては更に悪いことになるだろうと答えることになる。治療薬は善についての我々の間違った不道徳な概念を正すことにある。「しかし、それは恐ろしいことになる。結局自己犠牲だけが残ることになろう。結局、美徳と自己主張は同一のものではなくなるだろう。」と主張されるだろう。しかし、第二十五章ですでに説明したように、なぜこうした心を動かす訴えが私の耳には届かないのか。「しかし、厳密な正義とは最善のものではない。」いいや、私はそうではないことを確信している。宇宙には単なる道徳性を越えたものが大量に存在していることは確かである。道徳の世界でも、最上の法が正義であることをまだ学んでいるに違いない。「しかし、我々が死んだら、獲得したものをすべて失うのだと考えてみるがいい。」しかし、失われるものとは、第一に、私がそれを得るのに失敗したもの、あるいはそれを保持することができなかったものではないか。第二に、その非常に大きな広がりにおいて、宇宙のあり方とは単なる浪費だと思えないだろうか。我々はそのことについて不安になる必要はない。「しかし際限なく続く発展がなければ、どうして完璧さに到達することができよう。」際限のない発展ということで(もしそれがなにかを意味するのだとすれば)どうしてそれに達するのだろうか、と私は答えることになる。完璧さと有限性は原則として両立不可能であることは確かである。もし完璧であろうとするなら、分解し消え去らねばならない。際限のない発展とは完璧さから無限に遠ざかる試みのようである。(1)他方において、完璧な宇宙の一つの働きとしては、あなたはすでに完璧である。「しかし、結局のところ、我々は苦痛や悲しみがどこかで善にあると望まねばならない。」全体において、そして全体のなかで、もし我々の見解が正しいのならば、まさしくそうなる。個々においては、しばしばそうならないことは私も認める。そして私はそれを別な風に望み、私という人間の傾向や義務がそうさせたのだと考え、有限な存在のこの種の願望や行動が全体の計画を満たしているのだとする。それゆえ、個人が苦しんだとしても、そのすべてが間違っているとは論じられない。生には常に悲しみが存在することを私は認める。しかしそれを押し広げるべきではないし、真にそうだと主張することもできない。有限な存在に向かう姿勢において宇宙はばらばらにではなく体系として判断すべきである。「しかし、もし希望と恐れが取り除かれたら、我々はより幸福でなくなり、より道徳的でなくなるだろう。」多分、再び多分だが、より道徳的に、より幸福になるだろう。問題は大きく、それを論ずるつもりはないが、そのくらいのことはいえるだろう。全体的にいって、未来の生に対する信念を論じるものは誰でも、人間性のなかに悪を持ち込み、少なくともより極端な事例を考える。しかし、その問題はここでは関係がない。実際、もし有限な存在の本質がそうしたものであり、別の世界、別の生を見続けることによってふるまいを調節できさえすれば――問題は変わるだろう、と私は同意する。しかし、人間存在が真実でありそうもないことを信じず、悪化せざるを得ないような状況にあるとしても――宇宙にとっては、そうしたことが起きても、単なる細部のことでしかない。環境と調和できない種族は悪化し、上手く調和する種族は合理的で幸福に過ごすことになる。私はこの問題をこれでとどめておかねばならない。(2)

 

 

*6

 

 上述の議論のすべてはこの本の一般的な結論によると否定される仮定に基づいている。それらの仮定につては、議論が望ましいと付け加えられるだけだろう。事物の本性がそれを要求することを示すことができないなら、「私はこれが欲しい」と繰り返しても無駄なことである。世界の究極的な本性への探求から離れてこの特殊な問題を論じることは確かに利益になることではない。

 

 未来の生は私が語ることを望まない問題である。その問題が強いられ、ある種の仕方で、そこに含まれる主要な問題を扱うまでは沈黙を守ることにする。到達した結論は教育された世界が、全体としてつくりあげた結果であるように思える。個人の継続は可能だが、それ以上ではない。もし誰かがそれを信じ、その信念によって支えられているなら――結局のところそれは可能である。他方において、迷信に溺れるよりは、希望と恐れのどちらかも逃れた方がいいというものもある。それを主張したりほのめかしたりするものよりも自分ひとりで済ますことができるとする者のほうがより大きな責任背負っていないのは確かであって、不死性なしにはあらゆる宗教は詐欺であり、あらゆる道徳は自己欺瞞だからである。

 

*1:

(1)いわゆる消滅の恐怖は混乱の上にあるように思われ、私は正確な形においてそれが存在するとは信じていない。それは単に敗北を、怪我や苦痛を避けることである。というのも我々は自身の全体的な終結を考えることはできるが、それを想像することはできないからである。我々の意志に反し、おそらくは無意識のうちに、嫌々ながらも格闘している自身、失望し疲れ果てた、あるいはなにか不満を持つ自己の観念のなかに忍び入っているかもしれない。それは自己が完全に消滅することでないのは確かである。付随的な、あるいは幻影によるものでない限り、死への恐怖は存在しない。

 

*2:

(1)私はこのことを『フォートナイトリー・レヴュー』1885年12月号の精霊主義の証拠についての論文で示そうとした。おそらく、偶然から遠く離れた決して死ぬことのない高次の有機体が可能であることは明らかであることはここでつけ加えておく価値があるだろう。明らかにそれは、少なくとも我々の現在の知識のなかでは原理的に不可能とはいえない。

 

*3:

(1)上述の第二十四章、後の第二十七章を参照。

 

*4:

(1)未知の出来事の蓋然性は正しく半分だと取れる。しかし、この抽象的な真理を適用するためには、我々は誤りに対して身を守らねばならない。時間における事例では、我々の無知はほとんど完全なものではあり得ない。例えば、各瞬間において自然は多様に変化するを生みだしている。抽象的な偶然の機会はある場所におけるある出来事の反復だといえば、それゆえ、半数以下であるに違いない。他方において、また、別の種類の考察があらわれ、価値が無限に上がるかもしれない。

 

*5:

(1)幻影や交霊に基づいた議論については、上述の503ページに挙げた論文で議論した。人間外の知性を証明する仮定については、スピリチュアリズムの結論はいまだ根拠がないものだと私は示そうと思う。仮定そのものが馬鹿馬鹿しく真理ではないことについては論じる場所がない。スピリチュアリスとは彼らの特殊な結論を証明するのに通常ではないなにかについて考えているように見える。彼は可能なものと現実のものとのあいだの差異を見ていないように思う。無限の可能性の拡がりが、あるもの以外の他のすべてを取り除いたものと同一であるかのようなのである。スピリチュアリスとに対しては、公にしろ隠しておくにしろ、人間のみにしろ、あるいはまたより低次の動物にしろ、すべての事実が扱われるべきだと主張するのがもっとも重要である。現象の裂け目のない連続性はスピリチュアリズムにとって致命的である。異常な人間の知覚や行動を調べれば調べるほど、非人間的な存在を得る希望はなくなっていく。現代の心霊術の奇怪な結果を受け入れれば入れるほど、そうした透視やばかげた悪魔の世界で霊的同一性の検証法を見いだすことは不可能になる。事実については私は完全に心を開いているし、常に開いてきた。スピリチュアリストの不合理な結論については嫌悪感をもって私は拒否する。それらは信じることのできない迷信の表現や弁解としか私には思えない。

 

*6:

(1)この点について更に考えたい読者はヘーゲルの『現象学』449-460を参照すべきである。

(2)私は我々が愛するものに出会ったときの欲望に基づいた議論についてはなにも述べていない。別れの悲しみや死後に再び出会うことを望む残酷な目に遭わなかったものは幸福であるに違いない。しかし、誰でも、生のある時期が来ると、多かれ少なかれ、そうした欲望は矛盾していると見いだすことになる。死による別れもあれば、おそらくより悪い生による別れもある。それらの別れは生と死が我々の目からおおいを解き放す。女性の墓に喧嘩まで埋葬した友人たちは、友人の復活を願うのだろうか。いずれにしろ、欲望は重大な議論とはなり得ないだろう。現代のキリスト教福音書の(『マタイによる福音書』22-30)の厳格な戒律に反乱しているのは興味深い。個人の不死性が愛情を骨抜きにしてしまうなら、それは個人的なものではないだろうとひとは感じる。犬が蘇るまでは、天使たちのなかに加わりたくないと思うものもある。愛情に対するこの一般的な訴えは――未来の生について私が個人的に空虚ではないとする唯一の訴えだが――ほとんど証明することはできない。