ケネス・バーク=マルカム・カウリー書簡 1
【ご足労なことに、ケネス・バークとマルカム・カウリーの書簡を訳したものも少しだけあった。マルカウ・カウリーはヘミングウェイやフィッツジェラルドたちを「失われた世代」と命名した文芸評論家である。】
序
ケネス・バークとマルコム・カウリーは1913年に文通を始めたが、残っているのは1915年の夏からである。二人はピッツバーッグのピーボディ・ハイ・スクールでの級友かつ親友であり、この夏、カウリーはハーバードの奨学金の諾否を待っていたが、バークはオハイオ州のコロンビア大学に入学するか、仕事に就くかを決めようとしていた。ピーボディ・ハイ・スクールで二人は、共通の知的、文学的関心で友情を固めたのだった。『亡命者の帰還』でカウリーは、自分たちの仲間を、「父親の車を運転し、フットボールでは声援を受け、決して詩は書かないし、自分について疑問をもつことのないあらゆる状況において有能で幸福な」ものとは「異なる」存在として誇りをもつ作家志望と描いている。(16)「十七歳の時」と彼は続けている、「我々は幻滅し飽き飽きしていた・・・我々は家庭や学校で教えられていたほとんどあらゆることを疑問視し始めていた。」(18)
カウリーが思い返しているように、この幻滅の感覚は時代に遅れているという感覚と合致していた。「我々が専門とする文学は偉大なる過去の影のなかで生き続けている。我々を感動させるシンボル、愛や死や別れといった偉大なテーマは、使い尽くされてしまった。」(19)スティーブンソン、メレディス、ハーディ、ギッシング、ワイルド、ストリンドベリ、シュニッツラー、ショウまで及ぶ読書のなかで、彼らはそれに含まれた逆説の量によってその作品の近代性を測るようになっていた。「もしそれらが逆説的なら」とカウリーは書いている、「もしそれらが平凡さをひっくり返し、美徳による傷を見せ、悪党を英雄にしているなら————そのときその作品は『近代的』だ。」(20)カウリーがハーバーとの、バークがオハイオ州立とコロンビアの準備をしているとき(短期間だが彼は二つの学校に通った)、彼らは文学的な関心が互いに離れて行っており、敵意があるようにも誘いかけるようにも思えるより広い世界へと入ろうとしていると感じていた。「我々は他の者と変わらない、平凡だ」とカウリーは結論する、「だが、新米作家として、異常で秘かに違ったところがあるという感じに執着している。我々は芸術という特殊な世界に住んできた。現代作家を読み、逆説を称讃する者たちのフリーメイソンに属している」(22)。
1915-1917年の手紙で、カウリーはハーバートでの知的、社交的生活、若い詩人たち、法律事務所での仕事、古典主義と自由詩、フットボール、ケンブリッジの女の子、お酒を飲むことなどについて書いている。彼は大体において、自分とハーバードに満足しているように見える。だが、しばしば繰り返されるのは、バークとの自由な知的交歓がなくて寂しいということであり、バークがニューヨークのそばにいるのがうらやましいということである(バークの家族はニュー・ジャージーのウィホーケンに引っ越していた)。1915年の12月の手紙で、彼はこう主張している。
君は僕を鞭で打とうっていうのか、悪党め。僕は常に君とニューヨークで会うことを切望している。・・・僕が愉快な哲学的議論で死にそうなのは知ってるだろう。獣になってしまいそうだ。僕がすることといったら、勉強、食事、睡眠、シャワー、教室、食事、勉強だ。イマジスト詩人やボヘミアンみたいなおもしろいことより、フリードリッヒ・ホーベンスタウヘンやヒルデブランド、クリュニュー派についてずっとよく知っている。また、芸術の香りあるレストランで食事をしたいものだ・・・ほどよくワインを飲んで、存分に語りたいものだ。だが、君、僕は本当に語れるだろうか。勉強しすぎると機知などなくなってしまう。
バークはニューヨークをしばしば訪れ、イギリスの作家ルイス・ウィルキンソンとの親交を深めていった。ウィルキンソンを通じ彼はテオドア・ドライサーに会うことになった。しかし、彼もまたすぐに大学に行くことになり、ピーボディからの友人ジェイムズ・ライト(後にプロヴィンスタウン・プレイヤーズの監督になる)とともにオハイオ州立大学に入った。オハイオ州立大学でバークは精力的に現代文学と哲学に打ち込み、フローベル、ドストエフスキー、ボードレール、マラルメ、シュニッツラー、アナトール・フランスについてカウリーに書き送った。彼はまたライトを助けて文学雑誌『サンスキュロット』を出版し、それにはカウリーも寄稿した。オハイオ州立大学でバークはトーマス・マンを紹介され、フロイトを読み始めた。一学期ののちコロンビアに移るまでには、書くことで生計を立てたいという望みは情熱にまで高まっていた。「もし僕が考えたことを書くなら」と彼は1917年の夏カウリーに書き送っている、「考えたことを生きるより僕が望んでいることをすることにずっと近づくことになるだろう」。ある部分この情熱は世に知られたい、人と違った存在になりたいという情熱だった。「この世に自分の痕跡を残さずに死ぬという考えは、死について僕が恐れる唯一のことだ。言葉を変えて言えば、僕は死を恐れない————不完全な生を恐れている。」
バークがコロンビアで哲学を勉強している間、カウリーはアメリカ野戦病院の志願兵としてフランスでの戦争協力に参加していた。フランスでの滞在を利用して彼はフランス文学、特に詩に没頭し、バークへの手紙は前線での生活、戦争を戦っている世代への大きな衝撃とともに、読んだものの報告で満ちている。彼は「海を渡り・・・決まった生活範囲から僕を引っ張り出してくれたことを常に神に」感謝している。
いま・・・誰もが西部前線に自分の時間を費やすべきだ。それは今日の若い人間たちにとって共通の偉大な経験であり、この経験は次世代の思想を形づくるだろうし、それなしには現在そして未来の世界にあってある種の異邦人となってしまうだろう。
バークの手紙によってカウリーは、故郷での戦争に対する反応、コロンビアでのバークの仕事の具合、また彼の次第に募る欲求不満などに通じていられた。小説家か批評家になるという考えに惹きつけられていた————最終的にはどちらかを選ぶ必要を感じていた————バークは自分の受けているアカデミックな教育があまりに堅苦しく厳格であることがわかった。1918年の1月、彼はカウリーにグリニッチ・ビレッジの「フローベル」となるためにコロンビアをやめると書き送る。
僕はコロンビアをやめる・・・前途有望な人間に大学が何ができるかを悟って突然恐怖に襲われた・・・ニューヨークに部屋を借りて、一個のフローベルとしての生活を始める・・・僕は名人になりたいのじゃない。僕は、僕は、ああ、なんだっていうんだ、僕は、そう、非凡な才能の持ち主になりたいんだ。僕は労働することを学びたい、シジフォスのように労働することを————それが僕の唯一のチャンスだ。怖いけど僕はそれを信じている、懸命にやるしかない・・・学校は我々を駄目にする・・・
バークは春にコロンビアを退学し、それ以後二度と大学には戻らなかった。
戦争後、カウリーはハーバートに戻り、そこでコンラッド・エイキンやその他のケンブリッジの詩人たちに出会った。しかしながら、彼はすぐに不満を感じるようになった。その年の後期にハーバートを退学すると、ニューヨークのバークに合流した。そこで彼はマシュー・ジョセフソン、ゴーラム・ムンソン、ハート・クレイン、アレン・テートと友人になった。バークとカウリーはこの時期すぐ近くに住んでいたので、比較的僅かな手紙しか交換していない。1919年5月、バークはリリー・バッターハムと結婚し、同年8月にはカウリーがベギー・ベアードと結婚した。結婚後、カウリーは再びハーバートに戻り、1920年の冬にファイベータカッパを卒業する。卒業後夫婦でヴィレッジに戻り、カウリーは『スウィーツ・アーキテクチュアル・カタログ』の広告コピーを書く仕事を得る。この時期に、彼は最初の重要なエッセイ、彼の世代を惹きつける文学や観念について書いた「このもっとも若い世代」を発表する。もちろん、それは彼の生涯にわたる関心を示すものだった。このエッセイはゴーラム・ムンソンの眼にとまり、カウリーは二つの重要な前衛雑誌、『ブルーム』と『分離』(どちらもバークもまた寄稿し、編集を手伝っていた)とつながりができた。
コロンビアを去ったあと、バークは古典、現代フランス、ドイツ、イギリスの小説、詩、哲学を体系的に読むという巨大な自己教育の計画に着手していた。貧しくてもニューヨークでフリーランスで生活していけるだけの収入を得るために、『ニューヨーク・タイムス』、『エクスポート・トレード』、『ニューヨーク・イブニング・ポスト』で書評を始めた。後に、この収入を補助するものとして『ザ・ダイアル』にドイツ語から物語を翻訳した。1921年までには、彼は短編を書き、文学形式と芸術への哲学的な取り組みへの関心を高めていった。1921年6月、友人の画家カール・スプリンコーンについて書いているなかで、バークは、スプリンコーンは「物事を感じている。しかし、私の喜びは物事を定式化しないことには本当には始まらない」と書いている。バークはこの夏を妻と子どもとともにメイン州のモンソンで過ごし、それは彼にとって重要な時間であることがわかった。メインで彼は最初の本『白い牛たちとその他の物語』に含まれる多くの物語を書き修正し、その過程で文学形式についての観念をより厳密なものにつくりあげていった。この夏が終わるまでには、10月カウリーに書き送っているように、自分のなかでは「批評的なものが創造的なものよりも勝っている」ことを悟るようになった。ニューヨークに戻り、バークはすぐに『ザ・ダイアル』の編集助手となった。(『ザ・ダイアル』にいるとき、バークはT・S・エリオットの『荒地』出版の準備を手伝った。)1922年春、バーク夫妻はニュー・ジャージーの田舎(アンドーヴァー)に家を買い、そこにいまでも彼は住んでいる。
その間、カウリーは1921年の夏、モンペリエ大学の大学院に入るためにフランスに戻った(アメリカン・フィールド・サーヴィスの研究員として)。そこでカウリーはフランス文学についての以前からの研究を続けることができた。彼はまた、パリに来たアメリカからの友人と会い、ロトンド・カフェを中心にできた移住者仲間に知り合いができた。フランスにいる間、彼はアンドレ・サルモン(現代フランス文学の歴史を文字通り彼に図解して見せた人物)、そしてドーム・カフェでは、トリスタン・ツァラやパリのダダイストたちと友人になった。パリについて、カウリーは、「そこはグリニッチ・ビレッジだ、村よりは多くのものがあるだけだ」と書いている。また、「パリはコカインのようだ。ひどく高揚させるか、憂鬱の発作に落ち込んでしまう・・・パリは滅多に、あるいは決して偉大な文学を生みださなかった。まれな例外がある。ボードレール、ヴェルレーヌ、しかしこの規則はおおむね当てはまる。しかしながら、パリは偉大な文学の条件ではある。ときに、人は渋々とパリから離れ、ジョージ・ムーアやジェイムズ・ジョイスのように書く。」
この時期の彼らの書簡の主題は多岐にわたっており、バークとカウリーは、ダダにある一定の長所や現代文学一般について、哲学と美学、古典主義、『ブルーム』や『分離』で発表を手伝ったエッセイ、「アメリカ」に特殊な文学と批評をどのように発達させていけばいいかについて論じている。バークが物語を書き続け、後に二冊目の著作『反対陳述』でまとめることになる文学形式や美学についてのエッセイを書いているとき、カウリーは「ボヘミアについての短い歴史」というボヘミアについての最初のエッセイを書き(それは1850年と1920年のパリの芸術家たちのコロニーを比較したものであった)、プルースト、ラシーヌ、ラブレーを含むフランスの作家たちについて多くのエッセイを書いた。1923年にはカウリー夫妻はニューヨークに戻ってきており、カウリーもバークも後の輝かしい経歴を予感させるような関心の広がりを確立し始めていた。