ケネス・バーク=マルカウ・カウリー書簡 2

989 東通

                         ウィーホーケン  N.J

                         1915年11月6日

                         [PS]

 

親愛なるマルコム

 昨晩は僕の生涯でもっとも充実した時間だった。僕はドライサーのところにいた。経験したことすべてを書こうとはしない。冒涜のように思えるから。わかるだろう、僕にとってその夜は新たな時代の始まりだった。いつでも僕は新たな一歩を踏みだそうとしていたし、最初の一歩が最期の一歩なのではないかと思い迷っていた。ドライサーはとても僕に冷たく、気がないので怖くなってしまった。 夜遅くなるまで、彼は僕をしゃべらせてもくれなかったし、僕に注意を払っているような言葉も一言もなかった。でも、幸運なことに、僕は不作法をすることもなく、こんな難しい状況のなかで、1,2度はなにか人目を引くことを言ってみようともした。たとえば、ある男が、マーク・トゥエインは考え事をしたいとき、頭を火のそばに置いて寝るんだそうだ、と言った。僕はずるくはあるが強い印象を与えるだろうと思って、十分近づけないで寝たこともあったようですね、と答えた。また僕は、明らかに、ドライサーが技術的に自分の最良だと考えている本を失敗作の例としてあげる恐ろしい失敗を犯してしまった。満場をわかせはしたし、自分が正しいことも確信していたけど、自分が打たれるような良心の痛みを感じた。そろそろお邪魔することにしようという頃になって、僕はドライサーとの会話に臨もうと気後れのなかのろのろと進んでいったのだが、それまではつらい恥ずかしさにさいなまれるようだった。彼と会話して僕は非常に喜ばしい発見をした。君と僕で回旋(1)について彼に初歩的な教えを授けられるよ。彼は地獄のように平明なものを微妙だと言い————宗教をパンであるかのように語り————東洋人が西洋人よりも大きな脳、大きな知的発達を遂げていると認めた上で、東洋的な型というものは、それが意味する結論に気づかないと理解することができないと付け加えた。弱い気質、攻撃的でない気質についての心理学を説明できないとも言っていた。これは僕にとって絶好の機会じゃないだろうか。僕の計画している「ミノタウルス」という中編小説は、弱さを様々な方法で活用し、同時に僕の誇大妄想の産物を描きだそうとするものだからだ。僕は抜け目がない。それを証明するためには、脇役でも演じねばならぬ。公表を視野に入れて書こうとしているのだが、結末が強姦かその計画になるので(プロットは夏に君に話したものとはまた別)雑誌に載る希望はあまりなさそうだ。できるならメロドラマ的にして、長編よりは短編として書いてみた。

 しかし、ドライサー家の夜に戻ることにして————またいつでも来るように言われた。彼の非常に魅力的な友人から再訪するよう暖かい招待を受けた。いうまでもなく、僕は彼女への感謝の気持ちでいっぱいだった。彼女は人の気持ちを完全に安らかにしてくれる。ところで、君の詩を————無名の者の詩を————我々に朗読してくれたのは彼女だ。ドライサーが壁に掛けている驚くべき絵は彼女の姿を描いたものだ。それを見た僕はすぐさまウィルキンソン夫人(2)にニーチェを読んだ銀行受付嬢のようだと伝えた。彼女が細々と世話を焼いて僕を心地よい気分にさせてくれたとき、どれだけ気恥ずかしさと後悔の念に襲われたかは君にも想像できるだろう。彼女は背が高く、身体にあった服から判断するに、見事な美しい身体をしているに違いない。まさしくドライサーがもっともお気に入りの敵役にあてるような女性だった。

 ウィルキンソン夫人はわがキケロに公然と反対する。彼女みたいに、あつらえたかのよう心地のいい女性はない。彼女は小さく、神経過敏な女性で、暖炉のそばに立って、惹きつけるような低い声でしゃべり、かわいらしく煙草を消すので、僕はひどく夢中になってしまった。マルコム!偉大なる神よ、これ以後も知的ではない女性につかまらないよう僕を救いたまえ!わが最強の砦は粉砕されてしまった。美しさと頭の良さが両立するのは変なことではないのだ。これからは、僕の才能を証明するのにこの醜い口を引き合いにだすことができなくなってしまった・・・

 誰もがとても楽しかった。あるグループは哲学めいたことをもてあそんでいた。宇宙についての際限のない数の議論を始めるのだが、そのどれもが議論は無駄だという結論で終わるのだ。太陽は熱いと主張する者がおり————太陽は冷たいと主張する者もいて————三番目の者がうまくなかをとって、生ぬるいに違いないと言う。

 僕が予言しておいた通り、君の詩は受け入れられた。熱狂的ではなかったが、非難されることもなかった。マスターズの大いなる賛美者であるドライサーは、これは普通の波で次に来るものが予想できてしまう、と言っていた。でも、どうか君に対して勝ち誇っているのだとは思わないでほしい。君を守るのに手を貸せたことはとても嬉しかった。詩がもっと強烈な印象を与えられなかったことは本当に残念に思う。詩が発表されたとき僕はまだずっとドライサーに無視されているときだったので、君のために熱弁をふるうことをしなかったのだが、気持ちだけは汲み取ってほしい。しかし、僕が指摘した欠点のことだが、本当に、君は劇的なところがない。自分から乗る気のない聴衆を前にしたときには、もう少し感嘆口調を取り入れるべきだろう。そんな具合だから、ドライサーは君の詩をマスターズの模倣でしかないという印象をもったのだ。君は木についての議論で僕をよく悩ませるけど、僕には詩のなかにそんな君が読み取れる。しかし、彼らにはそれがおざなりに見えるのだ。

 昨晩ポウイスに会いに行こうと思ったが止めた。行かなくてよかった。小さな喜びを分け与えたいところなのだが。それはともかく、僕はまだ彼の講義を聴いていない。火曜日には出向くことになろう。講義のあとで、もちろん、もっと彼について語るつもりだ・・・

 クリスマスのあたりにしばらくの間君がこっちに来られないかと思っている。小さなボヘミアン風のレストランに断固として君を連れて行きたい。未来派的で————たとえば、その黄色はエル・カーの座席のように破廉恥だ。一度そこに行ったら、ゴンファロン(3)で感動したことなど思い出しても赤面するに違いない。芸術作品同様、君に都市を見せたくて仕方がない。うまく表現できないが、それはあまりに徹底的すぎる————だから、僕と一緒になって熱狂的に語り合える誰かに見に来てもらって、慰めをもらいたいのだ。6時前に、コートランド・ストリート沿いの川に出ることは、単純に苦しいことだ。エンデュミオンの便所には僕が君に語った夜想曲がある。ああ!こうしたことを誇りのもてる確固とした言葉で表現することができたら。そして空————ここでの空は特に目がさめるようだが、ピッツバーグでは気づかなかっただけかもしれない。ジェニー・ゲルハルト(4)がこうしたことを表現できないので叫ぶ箇所がある。自然のままといってもあまりに感傷的で、僕はとてもそんなことはしないけれど、ときにもっと忌まわしいことを誓っている。そして勉強をおろそかにするのだ。

 

(1)ピーボディ高校での友人とともに、バークとカウリーは回旋の理論を発展させたが、それは議論で互いが相手の反応を予想することで相手に打ち勝とうとすることである。カウリーはこの理論がどのように働くか『亡命者の帰還』25ページで回想している。

(2)イギリスの画家ルイス・ウィルキンソンの妻。

(3)ニューヨークのレストラン。

(4)ドライサーの小説『ジェニー・ゲルハルト』(1911年)の登場人物。






スティルマン診療所

                        ハーバード大学

                        ケンブリッジ マサチューセッツ

                        1915年11月22日

                        {NL}

 

親愛なるバーク

 君はいつでも僕がどうしようもない馬鹿だと知っているが、僕自身もそれが事実に違いないと疑いだした。もう知ってるだろうけど、我々はイエールを41対0で破った。ケンブリッジは、朝、イエールとハーバードの卒業生や在学生でいっぱいだった。試合のチケットは2枚75ドルで売られていた————馬鹿なことに、僕は自分のを売らなかった。スタジアムはいっぱいだった。

 ハーバートが最初のタッチダウンを奪ったときはすばらしい熱狂だったが、しばらくするとタッチダウンも単調になった。他の2000人のハーバート生と一緒に僕も試合の後、ゴール・ポストにけて帽子を放った————そしてなくしてしまった。そんなところだ。

 夜のことは話したくない。考えるだけで気分が悪くなる。ウッドコックで僕は飲めるものは手当たり次第に流し込んだ。カクテル、ラクリマ・クリスティ、モーゼル、バーガンディ、シェリー、シャンパン、ビール、ジンジャエール。会ったこともない2,3人の女の子にキスをし、それ以上の子に肘鉄を食らわされた。僕は幸福だった。ゲロを吐く前に何もわからなくなったのを神に感謝する。まあ、それが始まったのは日曜日朝の2時頃で、24時間は続いた。そしていまここにいるわけ。(1)たった一度のことで、自分にまるっきり誇りがもてなくなってしまった。

 知らせるのはそんなところ。では少し論文のことを。驚くべきことに、合衆国には3っつしか大学がなく、そのうち二校はひどくいいとは言えない。ハーバードの者は大学に無数の欠点を見いだせるだろう。しかし、そうした欠点は、我が校の誰でもが言うように、ハーバードがアメリカのもっとも偉大な大学だという輝くべき事実の前にはほとんど意味をもたないのだ。

 僕にもっと外に出て活動する時間があったら、より生活を楽しめるのだろうが。ここでは注目に値する数多くのよい詩が書かれている————主に自由詩やソネットだ。詩のクラブさえある。いまのところ僕は、劇クラブのコンペティションに参加している。ここでは何らかのクラブに属することは名誉あることである。たとえば、ドイツ詩サークルのメンバーになる特別招待を得るには、ドイツ語でコミックな詩を書かねばならない。フランス語のサークルに属するには、フランスの劇に出演しなければならない。どちらも大酒と下ネタで悪名高いところだ。ぜひ属さねば。

『アドヴォケイト』は幾つかのいい詩を発表しているが、ひどくみすぼらしい雑誌だ。『マンスリー』にはいい作品が多くある。『クリムゾン』の仕事場の雰囲気は元気が出る。三誌すべてのスタッフになりたいのだが。『ランピー』は言うところの独立系で、大学内外での、アメリカでもっともユーモアのある出版社の一つである。『イラストレイテッド』は大して評価されていないが、『ミュージカル・レヴュー』は独創的な曲を、またスクリャービンムソルグスキーの歌曲についての論文を公刊している。

ハーバードについて長々と書いていたら、肝心のことを忘れていたが、アメリカの真の大学はハーバードとイエールとプリンストンで、僕にとって、そして君にとって唯一可能なのがハーバードだ。ハーバート、イエール、プリンストンの名が密接に結びついているのは君も知ってるだろう。最近その理由を発見したのだが、三つの大学は、ケンブリッジとオックスフォードがもつような関係にあるのだ。スポーツでは、それぞれ他の大学を部外者として扱っている。それぞれ討論会をもっている。チェスを一緒にする。ユニヴァーシティ・プレスはハーバード出版、イエール出版、プリンストン出版の連合だ。イエールやプリンストンで成功した慣習はここでも行なわれる。セールスマンは三校をめぐる。こうした関係が、進学生は有名校に行きたがるという事実共々、三つの大学をいまのようなものにした。

紙が尽きてしまった。

                            マル

 

(1)カウリーはスティルマン診療所から書いている。