ブラッドリー『仮象と実在』 231

[可能性と疑いについての予備的な言明。それらは実証的な知識に基づかねばならない。]

 

 あらわれの、そしてその特殊な領域の多様性の事実は、説明することができないことを見いだした。なぜあらわれが存在し、なぜ多様なあらわれがあるのかという問題は答えられない。しかし、この経験の多様性において、我々は全体における完全な調和や体系に対立するものを見いだすことはない。この体系の本性は詳細において我々の知識を超えているが、我々は頑強に抵抗する要素のしるしをどこにも発見することはできない。我々の実在の見解に対する反論が合理的に見いだすことのできるようななにものも知覚することはできない。我々はあえて実在が我々がそれに付与するような――どうしてそれを知らないわけがあろう――一般的な性質を有していると結論する。



 「しかし、結局のところ、あなたの結論は証明されない。それをうち捨てるだけの十分な反論を見いだせないとしても、反証のないことがそれを確かなものにするわけではない。あなたの結論は可能かもしれないが、それでもって実在とはならない。なぜ実在はそれ以外のものと同じでないべきなのだろうか。可能性の未知の世界のなかで、どうしてそれに限定できるのだろうか。」といわれるかもしれない。この反論は深刻で、それを正確に考えるためには、最初にある種抽象的な考察に立ち入ることを許してもらわねばならない。本質的なものだけに限るよう努めてみよう。

 

 1.理論においては、究極的な疑いのなかで、首尾一貫性を満足させることはできない。意志的にであれそうでないにしろ、ある点においては絶対に確実であることを仮定せざるを得ない。そうでなければ、どうして判断に進むことができよう。お望みなら、知性は我々の本性の惨めな断片に過ぎないとしてもよい。しかし知的な世界においては、にもかかわらず、それは最上のものでなければならない。もしそれを捨て去ろうとすれば、世界はすぐにばらばらになってしまう。それゆえ、我々は、理論の外でどんな姿勢をとろうがお好みに任せるが、ゲームの準備をしないで参加することはやめてもらわねばならぬといわねばならない。そして、あらゆる探求は明らかになんらかの支配的な原理を含んでいる。極端な理論的懐疑主義であってさえ、審理と事実についてのなんらかの受け入れられた観念に基づいている。真理や実在のなんらかの主要な特徴を確かだと思っているからこそ、提示される特殊な真理を疑ったり拒んだりせざるを得ない。しかし、もしそうなら、あなたは絶対的な原理に立脚しており、それに関しては、陰に陽に、絶対確実であることを主張している。我々の一般的な絶対確実性から出発し、そこからあらゆる可能な結果の不確実性を論じることは、最終的には不合理になる。 というのも、「私はどこでも間違いうることは確かだ」という主張は自己矛盾であり、おなじみのギリシャのジレンマを復活させることになる。もし我々が主張を修正し、「どこでも」という代わりに「一般的に」といったとしても、求められた結論は得られないだろう。というのも、さらに我々はあらゆる真理が多くの部分で同一であり、あらゆる点において誤りは等しくありうると言わないのであれば、一般的な間違えやすさは特殊な結果に影響を与える必要はないことになる。(1)端的に、理論のなかで、我々は根本的な誤りに陥る偶然の機会を考えざるを得ない。間違えやすさについての我々の主張は、控え目な感情の表現か、知的な価値についての我々の低い評価を助けることになろう。しかし、そうした評価や感じは、現実的な理論の過程の外にとどまるに違いない。というのも、それが内側にあることを認めると、それらは不整合で非合理になることだろう。

 

 

*1

 

 2.次に、主張された可能性はなんらかの意味をもっているに違いない。単なる言葉は可能性ではなく、そうしたものとして承知の上で提示するものもいない。可能性はなんらかの現実的な観念とともに我々にあらわれるに違いない。

 

 3.この観念は自己矛盾し、自己破壊的ではないものでなければならない。そのように思われる限り、その限りにおいて、可能なものとして取られてはならない。というのも、可能性は実在を性質づけるものであり(1)、それゆえ主語となるものの既知の性格と矛盾しないものでなければならない。あらゆるあらわれは自己矛盾したものであると反論することは無駄である。それは真であるが、自己矛盾し、その限りにおいて、実在でもなく、実在の可能な述語ではない。自己矛盾した述語それ自体は、実在として可能ではない。実在となるためには、その特殊な性質が変更され修正されねばならない。この修正と改善の過程は、その性質が完全に変容し、まったく消え去ってしまうこともありうることもつけ加えておこう。(第二十四章)

 

*2

 

4.ひとつの観念しかないところで合理的に疑うことは不可能である。二つの観念が、実はひとつではないかと心的に疑うことはできる。実際そうした錯覚がなくとも、居心地の悪さを感じためらうことはあるかもしれない。しかし、疑いは二つの観念を含み、それらの意味合いにおいて実際に二つである。そうした観念がなければ、疑いは合理的な存在ではない。(1)

 

 

*3

 

 5.ある観念をもち疑うことができなければ、論理的に肯定されなければならない。あらゆるものが(既にずっと見てきたように)実在を性質づけねばならない。もしある観念がそれ自身においても他との関係においても自己矛盾しないなら(第十六章)、それは真であり実在である。明らかに単なる可能性は自己矛盾することはできない。(1)それゆえ肯定されねばならない。心的な誤りや混乱はもちろんそこにあるかもしれない。しかし、そうした混乱や失敗は理論においては、ないものとすることができる。

 

 

*4

 

 6.「しかしそのように論証することは無知の上に知識を置くことになる。我々の主張が無能のうえに基づいていることは確かだ」と反論されるかもしれない。我々の原理の本質はまさしくその正反対のものから成り立っているので、それほど間違っている反論はあり得ない。その本質は、知識の領域のなかに空白の無知を置くことを拒否することにある。二つの真正の観念を前にしないで、実在についての実際的な知識に基づくこともなく可能性を語り、疑おうとするものは――彼こそが無能力の上に立っている。自分の空虚さを認め、真理に向かっている振りをするものである。この奇っ怪な振り、慎ましさを装った狂った推定は我々の原理が抵抗するものである。しかし、もし我々がこの問題を真剣に受け取るとすると、結論は平易なものとなる。確かに観念は意味をもっていなければならない。確かに二つの観念は合理的な疑いを必要とする。確かに、可能と呼ばれるものは実在のある範囲で認められねばならない確かに、選択肢がないときに、多様な道筋のあいだでためらう人間の姿勢をとることは正しくも合理的でもない。

 

 7.次に、欠けたところのある判断についての反省から引きだされる一般的な疑いについて考えてみよう。(1)そうした判断において、実在はある種の示唆を排除するが、排除の基盤となっているのは知られた問題についての現実的な性質ではない。反対に、基礎となっているのは不在である。単なる不在が我々のうちにある心的配置によって主語を性質づけする。あるいは、知られている主語が完全だと推定されると、その限界はそれ自体を超え、我々の無能力にまで及ぶことになるといえるかもしれない。実在については、常にそうなると主張される。我々が知るように、宇宙は、別の言葉で言えば、我々の無知を通じてのみ完全である。それゆえ、我々の実在の知識は常に不完全だといえる。このことに基づいて、我々が他になにも発見できないとき、なんらかの可能性を宇宙について主張することがあり得る。

 

 

*5

 

 私は重要な真理を含んでいるためにこの反論を自身で提示した。その原理は、正確な限定を守れば、十分意味がある。いいや、この本を通じて、私はどこでも知識を無知によって補完する過程の正当性を利用してきた。どうしてここでその原理を放棄するのだと主張できようか。実在は常に我々の無能力によって限定されており、それゆえ、あらゆる点において、我々の可能性を越えて広がっているものではなかったろうか。

 

 しかし、この点においての反論は明らかに自己矛盾している。可能なもの領域はここでは広げられ、一息に限定され、破滅的なジレンマが生じたうえで、問いに答えることが主張されるだろう。しかし、間違いの底辺にある主要なものをさらしてしまう方がいい。欠乏した知識も、他のあらゆる知識同様に、最終的には実質的なものである。なんらかの領域となんらかの存在を至るところに仮定しない限り、不在と欠如について語ることはできない。無知が隠している領域についてすでになんらかの知識がなければ、無知が知識の判断を不完全なものにしていると想定することはできない。実在において知られている範囲は多様であり、ある場所に不在なものを別の場所に探すこともあり得る。ある種の特徴において、知られている世界がそれ自体不正確であると推測されるところでは、世界はすでにそうした特徴を越え、自らを超えて広がっている。当然、我々はその広がりをもった実在を我々の結論と推測で追う権利は有している。そしてこうした議論で、我々はこうした先入見を有利に用いている。しかし、他方において、それは従属的な物質しか保持しておらず、我々の権利は宇宙の知られた領域のなかにしか存在しない。それを越えようと企て、実在の究極的な性質の外側にあろうとするのは意味のないことである。もし我々の知識を越えた実在が存在するなら、いかなる意味でも我々はそれに気づくことはない。そしてそれについてまったくの無知であるなら、我々の無知がそれを隠しているのだと示唆することもほとんどできない。かくして、最終的には、我々が知るものと実在するものは共存しておらねばならず、その領域の外側ではなにも可能でないのは確かである。それゆえ、一つの単純な可能性が単一であり実在でもあるものとしてとられねばならない。この知られた領域の内部、その外側にないものに無知に隠されたあらゆる王国がある。これが知的な疑いのすべて、また、非合理的ではないあらゆる可能性に対する反論である。

 

 8.この点について明瞭な見地を得るためには、事物の理想的な状態を考えれば報いを得ることになるかもしれない。既知の宇宙が完璧な体系なら、その不完全さを示すようなものはどこにもあり得ない。可能性はすべて全体のなかに位置を占め、体系の残りのものによってあらかじめ決定され、定められている。また、そうした全体のどれか一つの要素から出発すれば、我々は宇宙全体を完全に描き出すことができる。欠如や無知による疑いは完全に消え去ることになろう。体系そのものが外部に可能性をもたないだけではなく、有限な細部のなかにおいてさえ、同様の完成に達せられる。「不在」や「誤り」という語は、実際には、その正確な意味合いを失っている。あらゆる観念とともに他のすべてとの関係が可視的なものとなるので、疑いや可能性や無知の領域は残らないだろう。

 

 9.この知的な理想は現実のものではないことは我々もわかっている。それは我々の世界には存在しないし、世界が根本的に変化しない限り、その存在は可能ではないだろう。それは知性が立つ位置を変えることを必要とするだろうし、残りの経験の諸側面との全体的な関係が変容する必要がある。我々が全能でないことを証明するために議論を掲げる必要はなく、あらゆるところで我々の弱さは告白されている。多様な宇宙が説明され得ないことは、前の章で述べたことを繰り返そうとは思わない。我々の体系はその細部において不完全である。

 

 さて、不完全な体系には至るところに無知の領域があるに違いない。最終的に、主語と述語が一致しないのであれば、多かれ少なかれその輪郭に関して未知の部分が残っている。そこに疑いや可能性や理論的補助の領域がある。あらゆる部分において不完全な体系は、首尾一貫せず、それを越えた何者かを予測させる。しかしそれぞれの細部が揃っている正確な完全というのはどこにも示唆し得ない。それゆえ、その拡がりとその統合において、ある部分単なる集合として残るところがあるに違いない。最終的には、我々はそれが我々の不完全さをつうじてのみ把握され、言い尽くされるといえるだろう。

 

 10.しかし、ここで我々は上述した区別に戻らねばならない。不完全な世界であっても、それは結局のところは部分的で不完全で無知なところもあるが、我々の知識としてあらわれる。それらはすべての特徴についてうまくいくわけではなく、他者の存在についての正当な観念がない部分も存在する。そしてそれらの点については、疑いや他の可能性の探究は意味がないものとなろう。無知が陥ることがありうるところに有益な領域は存在しない。明らかにそうした限界内では(我々は以前は同定できなかった)合理的な疑いは非合理的な想定になる。その外部では、意味が無い、あるいは諸事物の本性とは整合性をもたないということさえできない想定があるだけである。しかし、それらの単なる可能性は考慮する価値がある。しかし、再び述べることになるが、世界の他の領域では、事例は変わってしまうだろう。我々は実際の完全性についてより高度なものから程度の低いものまで見いだすことになり、それに従って可能性の系列も価値が異なる。これ以上予備的な議論を重ねても有利なことがあるとは思わない。そこで、絶対について提起されうる疑いに直接向かうことにしよう。

*1:

(1)この点については私の『論理学原理』519-20を参照のこと。

 

*2:(1)同前187ページ。読者は可能性の扱いについてこの本(第二十四章)とボザンクエット氏の『論理学』とを比較されたい。

*3:

(1)同前517ページ。

 

*4:

(1)というのも、もし矛盾しているなら、内的に分裂し、同様に外的に自らを越えたものとなる。

 

*5:

(1)同前112-115,511-517.また上述、第二十四章を参照のこと。