一言一話 136

 

 連合主義の心理学の欠陥は、それが常に<類似>という観念によって動き、実際それを心的モデルをつくりあげるときの首尾一貫性の全能の保証として使用するのであるが、その観念が何をもたらすかについての真剣な考えをもっていないことである。(75−76)こうした思考は、経験主義者の信任を主張しているときでさえ、その性格において根深く観念的である。自己同一化の行為を神聖化するが、その理由を知ることなしにである。一方、精神分析は、理由を知り、その知識は今や自由に利用できる。そのすべての形式において自己同一化は幼児期のナルシシズム的な儀式の反復である。しかし、ラカンが見るように、幼児がともかくも彼が制御することのできない分裂を引き起こすところで、成人した知識探求者──つまり心理学者は──彼らの妄想的な起源を隠蔽するために機械的に自己同一化の進行を再適用する。科学と認識論はラカンの議題について厳密に語っているわけではないが、ある構造を想定することは、同時に、ある発達過程を想定することだと言ってもいいだろうことをラカンは我々に思い起こさせる(88−89)。科学の新時代の歴史においては、個人主体の歴史においてのように初期の同一化は胎児における運命、未来に対する青写真である。それは承認されていない狂気の承認されていない源泉である。精神分析も狂っているが類似性の誘惑に素朴に服従する以上のことを知っている。それは自らを関係的な相対的な科学として──コミュニケーションする人間間に位置づける──構成し、手順の上の合言葉のなかに自らの狂気を知るのである。

しかし、我々の多くはなににおいても、理由を知ることがないのではあるが。