ブラッドリー『仮象と実在』 233

[絶対は経験である。]

 

 あらゆる疑いを越えて、実在がひとつであることは明らかである。それは統一であるが、問い続けなければならないのは、なにの統一かということである。そして、我々がすでに見いだしているのは、我々が知るすべてのものはすべて経験からなっているということである。それゆえ、実在はひとつの経験でなければならないし、この結論を疑うことは不可能である。

 

 我々は感じや、思考、意志、感情、その他の種類以外のものを発見することはできない(第十四章)。我々はそれ以外のものをなにも見いださず、それ以外のものの観念は端的に不可能である。というのも、そのように想定された観念は意味がないか、観念ではないか、暗黙のうちに経験に潜んでいることが見いだされるだろう。主張されるような他者は、実際には他者ではないところで探し求められている。それは意志に反して、また無意識的に経験のある種の様態のなかに含まれている。お気に召すならそれは他のなにかを主張しているとしてもいいが、同じ種類の他のなにかなのである。そして他者や対立という形は、対立しようと努めるある内的側面の助けとなるようななんに意味もない。端的に言って、我々が最終的にもつのはひとつの観念だけであり、その観念は実定的なものである。それゆえ、この観念を否定することは、結果的に、それを肯定することになる。それを疑うことは、実際的にまた錯覚も抜きにして、可能ではない。

 

 もし私がこの点を明らかにしようとするなら、おそらくは曖昧なものにしかならないだろう。経験の一部ではない他者の観念を見せてくれたまえ、そうすれは私はすぐにそれがまったく何ものでもないことを示すことだろう。しかしあらゆる形での錯覚をあらかじめ予期し、扱うことはほとんど我々を啓発することはないように思える。それゆえ、この主要な原理は明らかに確立されたものと仮定し、それを発展させ、不明瞭な部分を取り除いていこう。

 

 まず独我論という難しい問題に帰ることにしよう。それはおそらく第二十一章で十分に議論したものであるが、ある程度の繰り返しもここでは有益だろう。もし実在がひとつの経験であることが証明されると、独我論に帰結すると反対される。また、もし我々が自己を超越することができ、そこを進むなら、それはおそらくは経験ではないと反論されるだろう。端的に言って、我々の主要な結論は直接的にではないにしても、ジレンマを通ることになる。それ本来の自己矛盾した発達によって破壊の脅威にさらされることになる。

 

 さて、このジレンマに対する私の回答は、それが仮定するものを否定することである。第一に、それは私の自己が私の経験と同じだけの範囲をもっていると仮定している。第二に、私の自己がなにかしら堅固で、排他的であると仮定している。それゆえ、もしあなたがあなたの内部にいるなら外部にはまったくおらず、もしあなたが外部にいるなら、あなたはまったく異なった世界にいることになる。しかし、すでに示したように、そうした仮定は間違っている(第二十一章、二十三章)。こうした論点が引っ込められるなら、ジレンマも崩れてしまう。

 

 感じる有限の中心は、それが続いているあいだは(我々の知る限り)互いにそれ以前と直接につながってはいない。しかし、他方において、自己はそうした経験の中心とは同じではない。他方において、あらゆる中心において、実在全体が現前している。有限な経験はどのような形にしろ、決して壁によって閉ざされてはない。それはそれ自身において、またその本性の分離できない諸側面において、あらゆるところに入り込む実在である。経験において、世界と自己とが完全に一致することは決してないし、なかった。というのも、もし我々が自己と世界が違わないと感じる段階に到達するのだとしても、そうした段階はいまだ存在しないからである。しかし、我々の最初の直接的経験において、実在全体は現前している。このことはあらゆる経験の中心がそれ自体としてそこに含まれているという意味ではない。それはあらゆる中心が全体を性質づけ、実体としての全体は、それぞれに形容されるものとして存在するという意味である。それゆえ、直接的な経験から自己は発し、また区別される。自己こと世界は諸要素であれ、そのそれぞれがばらばらで、それぞれが経験によって含まれている。多分、あらゆる場合において、自己――そして少なくとも常に魂は(1)――知的な構築物に含まれそれを通じてのみ存在する。かくして、自己は直接的経験に基づいて構築されており、それ自体を超越する。それゆえ、あらゆる経験を自己の単なる形容物として記述することは、いかなる意味においても、擁護できない。超越についていえば――そもそもの最初から自己は経験によって超越されている。あるいは、ことのことを別のように言いかえることもできる。自己は超越の一つの結果であり、最初の不完全な形での経験である。しかし、経験と実在は十全の意味に取り、それを超越できないときには同じものである。

 

 

*1

 

 このことは繰り返しても許されるだろう。経験はその初期の形においては、直接的な感じることの中心であり、自己でも非自己でもない。それはもちろんそのなかにある実在を性質づける。そして自身の有限な内容を分割することができずに、宇宙全体に関連づける。しかし、それ自体は――それ自体といえるのだとすれば――この有限な中心が世界となろう。そして自らの不完全さによって、そうした最初の経験は破綻する。その統一は内的な不安と外的な衝撃が一つになることで崩れ去る。そのとき、一方では、自我はこの発達によって生みだされ、他方では別の自己たちと世界と神があらわれる。それらはすべて一つの有限な経験の内容としてあらわれるもので、現実に真にそのなかに含まれている。それらはそこに含まれているが、部分的で、多かれ少なかれ、取るに足りない割合である。だがその部分は、その限りにおいては、まさしくその存在であり実在である。有限な経験も既に部分的には宇宙である。それゆえ、ここには一つの世界から別の世界へと乗りこえるような問題はない。経験は既に二つの世界にあり、その存在をもつものである。問題となるののは、単にこの共通の存在が、実践的に、また知識において、どこまでのことをできるかということである。別の言葉で言えば、宇宙全体は有限な経験に不完全にあらわれるが、もし完成したとすると、単にその経験の完成に過ぎない。別の世界への超越を語ることはそれゆえ間違いである。

 

 ある種の目的にとって、私が経験するのは、自己の、あるいは私の魂の状態として考えられるからである。そう考えられるのは、ある点において実際にそうだからである。しかし、この点は存在の微小な断片かもしれない。どのような場合でも、私が経験するものは私自身の単なる形容であることはあり得ない。私の自己は直接的ではなく、また究極的には、実在ではない。直接の実在は自己と非自己とを含む、あるいはどちらも含まない経験である。そして、他方において、究極的な実在は宇宙全体であるだろう。

 

 以前の章で、我々は独我論に含まれる真理に気づいた。すべてのものは私の自己も含めて、絶対にとって本質的であり、切り離すことはできない。そしてまた、感ずることにおいてのみ、私は直接的に実在と出会うことができる。しかし、ここでは、真理のそうした側面にとどまる必要はない。私の経験は世界にとって本質的であるが、世界は一つの側面を除き、私の経験ではない。世界と経験は、一般的に、同一である。そして、私の経験とその状態は、ある意味、実際に全世界である。というのも、このわずかな広がりにおいて、一つの実在は現実に私の自己だからである。しかし、逆に、全世界は私の経験であるといっても同じことになる。というのも、そこにあらわれるものがあり、それぞれのあらわれには常に単一の存在が不完全に含まれているからである。

 

*1:

(1)これらの言葉はあらゆるところで等値なものと取られるべきではない。感じる中心がなければ自己や魂がないのは確かである。しかし、自己ではなく魂でもない感ずる中心は存在しうる(以下を参照)。おそらくある種の自己はまりに束の間で魂とはいえず、正確には自己と呼べない魂が存在することは確かである。後者は自己と非自己との区別がまったくないようなところでは用いるべきではないだろう。常に正確に同じ意味で用いられているとはほとんどいうことはできない(第九章)。