ブラッドリー『仮象と実在』 234

[しかし絶対は(正確に言うと)魂からなるのではない。]

 

 非合理的な偏見からくる反論を離れ、いくつかの興味のある点を考慮することに進もう。絶対は魂から構成され成り立っているといえるだろうか。この疑問は曖昧で、いくつかの意味で議論されねばならない。宇宙に――と最初に問うてみよう――経験の有限な中心を含まないような物質が存在するだろうか。一見したところ、そうした中心の関係を指摘するのが自然に思える。しかし、そうした関係は、反省すればわかるように、中心そのものの知覚と思考とを含んでいる。問題となるのはむしろ、いかなる形のものであれ、なんらかの有限な中心を要素として受け入れないような経験は可能であろうか、ということである。

 

 我々の無知からすると、この疑問は回答不能であるように思われる。我々はなぜ、またいかにして絶対が諸中心に分裂し、そのように分裂したものがひとつのものにとどまっているのか知らない。多くの経験と単一の経験との、またそれらの相互的な関係は、結局のところ我々を越えたところにある。もしそうなら、なぜ全体のなかで経験された諸要素ではなく、従属的な焦点のなかで経験されたものではないのだろうか。実際、我々は別の側面から、この無知に直面し、この問題に疑問をもつこともできる。そうした触れあうことのない要素、あるいは諸要素の周縁にあるものはなんらかの意味をもつのだろうか。そうした観念を合理的なものとして心に抱く権利を持っているのだろうか。事実、我々の無知は感じる有限の全体から離れた経験のいかなる可能性をも禁じているのではないだろうか。しかし、考慮ののちにも、私はこの疑いが勝利を収めるべき点を見いだせなかった。確かに、そうした触れあわぬ要素から観念を形成するには抽象によるしかなく、この抽象は適正ではないように思える。諸要素がまったく曖昧なものとして取られると、それらが経験の全体のなかでいまだ分離し得ない要素ではないとすると、抽象は明らかに不整合な観念に導くものだといえよう。そうした観念は可能なものとしてみるべきではないことは我々も同意する。しかし、いまの事例においては、有限な中心に触れていない諸要素とは全体に従属し、統合される側面である。この全体はひとつの経験であるので、位置は変化する。有限な中心からの抽象は目に見えるように自己矛盾へと導くわけではない。それゆえ、私はその帰結を可能だとみることを拒むことができない。

 

 しかし、他方において、この可能性はなんの重要性もないように思える。もし我々がそれを事実として取るなら、全体と大きな差異を生みだすことを見いだすことはないだろう。そしてまた、そのように取ると、ほとんどなんの根拠もないように思える。これら二つの点を簡潔に考えてみよう。触れあわないことが完全に絶対的なことであるとすると、経験の諸要素が触れあわないことは(既に見たように)重要な問題となる。しかし、いずれにしろ、すべては一緒になり、全体のなかに融合するので、そしてこの全体はいずれの場合にも単純な経験であるので、主要な結論にはまったく影響がないように思える。ある経験した事柄が直接的に有限な中心を性質づけないという事実は、それ以上の結論を引き出せない事実である。しかし、第二に、この事実を保持するのによい理由がないことも確かである。有限な中心の数とその多様性は(既にわかっているように)非常に大きなものであり、我々の知識を越えていると想定しても公正であろう。またそれらの中心間の「あいだの」関係や機会も困難である。もちろん、関係は実在の外のどこかにあるものではない。もしそれが真に諸中心の「あいだ」にあるなら、我々は経験の外部にありそれに付け加わるものを仮定するべきである。結論は次のようになろう。我々はそれを、正しく理解しさえすれば、可能だと見る。事物がそのようなものであれば、確かに感謝してもよいように思える。私の見る限り、いかなる関係のいかなる側面も有限な諸中心に含まれる経験された事柄から外れるものはない。関係そのものは、絶対のなかでなければないし、存在できない。問題は、関係を含み、変容するようなより高次の経験が中心のなかでは経験されない要素を要求するかということである。そうした要素を仮定しても、私自身はその根拠を知覚することはできない。たとえ我々がそれを仮定したとしても、主要な結論は変わらないままなので、最上の方法は、おそらく、非実在のものとしてそれを無視することだろう。全体については、実在のいかなる要素も有限な中心の経験の外にでることはないと結論づける方がいい。

 

 それでは我々は絶対は魂からなっていると主張するのだろうか。私の意見では、それは二つの理由で不正確である。第一に、経験の中心は魂、あるいは自己と同一ではない。それが非魂と魂とを区別する必要はない。それが含むにしろ含まないにしろ、どちらの場合にも、正確に自己だとはいえない。それはそうした区別の下に、あるいはより広く、上方にあるものだろう。既に見たように、魂は常に知的な構築の産物である。直接的な経験の単なる中心と同じものではあり得ない。あるいは、すべての中心がある意味でそれに対応する魂を含み、従えているとは主張できない。そうした中心の持続はおそらく束の間のものなので、理論の助けを借りることなしには、それらを魂と呼ぶことはできない。それゆえ、我々は世界を満たす経験のすべてを魂が含むとは主張できない。

 

 第二に、いずれにしろ、絶対は魂によって構成されてはいないだろう。そうした局面では、我々が究極的とは見なすことのできない統一の様式が含まれる。絶対のなかでは、有限な中心が維持され、尊重され、存続はするが、単に秩序づけられ、配列されたものとしてであると考えられる。しかしそうした状態は(既に見たように)事物の最終的な運命でも最終的な真理でもない。我々は事物だけではなく、その内的な関係をも再配列する。我々はすべての材料をまぜ直し、全体にわたって再注入する。事物そのものが変質し、その個的な性質を失うときに、絶対は有限な物質からなるとはほとんど言い得ない。(1)

 

*1

 

 そのとき、実在はひとつで、それは経験である。それは単に私の経験ではないし、それが諸魂や諸自己から成りたっているともいえない。そして、経験の統合でも、それ以外のなにかでもあり得ない。というのも、それ以外のなにかとは、検証してみると、常に経験であることがわかるからである。我々はそれを前の章(第二十二章、二十六章)で、自然の場合を取って確かめた。他のすべてのものと同様、自然は、ある意味において、説明できない部分が残っている。最終的にはある配列であり、偶然の共存と継起であって、結局我々には答えられないことは明らかである。なぜか。しかしこの無能力は、他のものと同様、我々の結果である真理に影響を与えない。自然は経験の抽象であり、経験においては、精神や心的なものと協同している。既に見たように、心的なものは自然より高次の実在であり、物理的世界の本質は既に、心的なものに吸収され、超越されたものとしてそこに含まれている。自然そのものは経験全体の一分野でしかない。

 

 既に指摘したように、この経験の全体的統合は直接的には検証できない。我々はその本性を知っているが、輪郭のみで、詳細はわからない。既に見たように、感じることは非関係的な統合の確かな観念を与えてくれる。観念は不完全であるが、確かな根拠を与えてくれる助けとしては十分である。そして我々は経験のあらゆる断片によって、性質づけられ、非関係的な全体を、我々の原理に従って信じざるを得ない。しかし、すべての経験の統合が、経験ではないなら、意味をなさないだろう。全体はひとつの経験であり、そうした統合はあらゆる関係よりも高次で、それらを含み変容するものとして確実な意味をもっている。その存在の詳細のあり方については我々はまったくの無知だが、一般的な性質については、抽象的知識ではあるが、確実なものを得ている。その結果を否定したり疑ったりしようと試みても、我々は再び無意識のうちにそれを肯定していることを見いだす。

 

*1:(1)この理由から、人間性、組織体、王国、社会などは究極的な観念ではない。そこには不完全な統合と、実在にどう高く見積もっても仮象の有限な断片しか帰さない。この二つの欠陥は、もちろん、原理的には一つのものである。あらゆる自己の現在、過去、未来を含む組織体や社会は――それ以下のものと受け取ることはできないが――それ自体私にとっては不整合ではないにしても、曖昧な観念である。しかし、いずれにしろ、その実在と真理は究極的なものではあり得ない。私自身についていえば、倫理学においてさえ、そうした観念がどれだけ主張されるべきかわからない。全体の完全性は私において、また私を通じて実現されるはずである。間違いなくこの全体はその多くが社会的なものである。しかし、私は、倫理学においてさえ、それ以外にはないという道筋が見いだせないのである。