C・S・パース「人生のふるまいについての主として個人的な考え」
【パースなんかもちょっとだけ訳していたりなんかして】
1860年6月7日~1888年3月17日
III
1953年
愛は望ましいこと、善きことすべての根底にある。
IV
あらゆる真理は無限に拡張できるが、あらゆる真理は普遍的な原則に拡張されるとき、それらは計算できない諸力の平行四辺形ができる。それゆえ、特殊な規則が必要である。
IX
詩人たちは共通の性質を見る。
XIX
私 理性 信仰 善 秩序に関する愛 統一 現実 恒久性
能力・衝動 魂 汝 好意 愛 美 人間に関する愛 全体性 限定 因果関係
それ 感覚 希望 真理 世界に関する愛 複数性 否定 共同体
XXII
1860年 6月23日
知恵と知識の相違はこうである――知識は我々が経験的に得るもので、知恵は精神が広げられることによってもたらされる。
XXIV
1860年7月12日
Errare est hominis
観察は間違えるかもしれないが、事実と正反対であることはありそうになく、そうでない限りにおいて、本質的には間違いではない。付加や変更を必要とするだけである。
同様に、論理的誤謬は命題を生み、意図したものとしては間違っているかもしれないが、意味を変更すると真である。それは不正な手順において明らかである。分配されない中間項、否定的前提、曖昧な中間項の場合、前提をひとつ変更することは常にある結論を可能にする。
人間の誤りは常に付加や修正によって正されるという事実は、「天才は決して間違えない」そして哲学者たちの誇り「科学は決して間違いのなかにはいない」というよく言われる言葉を呼び起こす。事実は、本質的な誤りは、逸脱、不正、あるいは情念からのみ生じる。偽りのない哲学的な生産は、あらゆる人間の命題とわけることのできない間違いしかない。
このことは論争的精神の非人間性と、偉人がその間違いにもかかわらず、いまだ崇拝されていることを教えてくれる。彼の本を読むとき、我々は黙って付け加え変更し、再び書き直すことによって言葉と意味とが常に多大なる異端の源であることを確信したとしても、できるだけ自分自身の言葉遣いにあった正確なものにしようとするのである。
XXV
1860年7月12日
あらゆる命題の項は理解できるものと仮定されている。それゆえ、命題は新たな概念を与えはしないし、知恵は本から学びはしない。
XXVI
1860年7月13日
形而上学は形式の研究である。物質の研究においては、少なくとも主題についてのなんらかの観念を持ち、それゆえ決して完全に間違えることはないが、変更された形式は変更されない形式とまったく同じではなく、それゆえ、形而上学は決して部分的にも正しくはない。
XXXVI
1859年
人間は自分の性格と反対のことをするのは不可能である。
それを試みるのはばかげている。性格が人をつくるのであるから、そうしたところでよりよくなるわけではない。
XXXVII
1960年8月
ある事物の本質――その性格――そこに含まれる多数の統一である。論理的原則は、そこから事実を還元できる主要前提が得られる。
しかしながら、人間の原則と呼ばれるものは、それを実行するかどうかはともかく、確かな信念である。それゆえ、それらは性格を形づくりはせず、諸事実の一般的な表現――魂の行為――がそうするのである。
彼がすることは重要である。
どう彼が感じるかは副次的である。
XXXVIII
1860年9月16日
人間の有限な本性が関わってくるのは自由意志においてである。疑いのなかにあるときにのみ――それゆえ、ある危機的瞬間にあるときにのみ――意志は自由になる。それゆえ、倫理学の実際的な部分は、そうした危機的瞬間の研究である。
XLI
1856年8月12日
動くことができるのが「魂」である。魂は多かれ少なかれそうである限り、多かれ少なかれその力を持っている。いかなるときにおいても、この力が働き動いている限り、多かれ少なかれ「刺激されて」いる。
活動的な状態にある魂が同じ考えや観念を反復し継続していると(多くの考えから注意深く些細なものをより分ける)、考えは自然に魂へとのぼっていくだろう。
しかし、魂をこの活動的な状態に置くのはなんであろうか。美である。この(私は自動的という言葉を使うが)喚起の方法においては、辛抱強い考えがなににもまして必要である――それは二つのやり方で起こりうる。第一に、考えそのものの卓越性[ある思考は観念に勝る]そして、
第二に、それに払われる注意である。
我々の自動的方法を使用するためには、実際にはなんらかの手段をとる必要がある。
注意の主要な部分は辛抱強さに払われる。すなわち、
第一に、注意は他のあらゆる考えから引き上げられ
(第二に)辛抱強い考えへと導かれることになる。
さて我々は三つのしなければならないことを決したことになる。1.魂を感受性が強く、活動的にする。2.注意をからのままにしておく。3.そこに辛抱強い考えを入れる。
XLIII
1858年
子供がろうそくで指をやけどしたとき、不愉快な感覚を引き起こすばかりではなく、慎重さについても教えを受ける。さて、単なる物質はなにも与えるものがないために、そうした考えを子供に与えることはできない。それゆえ、世界の創造に際し、この考えを自然のなかにおいたのは神であるに違いない。さて、この熱は形相であり、あらゆる力は形相である。物質については我々はなにも知らない。
あらゆる形相は力でもあり、というのも、作用するとは影響を与えることであり、それゆえ、精神的なあらわれである。もしそうなら、あらゆる形相は意味を持っているはずである。しかし、あらゆる現象は形相なので、あらゆる事物は意味を持っているに違いない。透明な水のしずくは海全体と同じく、我々の意識的な情に意味を伝えるに違いない。
XLVI
1859年
祈り
私は祈る、ああ父よ、私の生得の観念をして客観的に適正たらしめ給え。不活性な物質が自然に従っているように、私は汝の法に従って生きることを欲する。結局は、私には汝ものも意外には思考も、望みも、意志もない。おお神よ、健康、勇敢さ、力を私にお認めください。汝の以前からの善き恵みを祈り、友人の恩を忘れるように、祈りを悪用したことをお許しください。主よ、私の弱さを哀れみ、そこから解放してください。私を解放し、支えてください。
XLVII
1854年
真理が絶対以外であり得ると考えることはほとんど不可能である。だが、人間の真理は、事実の基礎にあるのが仮定なので、決して絶対ではない。
前提の蓋然性は常に結論のそれよりも大きい、あるいは、出発点となる仮定は事実のうちでもっとも確かであることは証明されている。達せられるもっとも確からしい真実であっても推測されたものであるという意識は、いかに知性の傲慢さをくじくことか。
XLIX
1859年
人間の諸能力の分類について
最終的に真なるものを与えてくれるのは誰なのか。ここで人のいくつかの長所を挙げてみよう。
人間 1.目覚め、活動的な。
2.見る
3.考える。
4.欲望する。
5.行為する。
6.楽しみ、苦しむ。
7.敬意を払い、愛する。
私はいろいろなところで私-衝動、それ-衝動、汝-衝動の分類を進めてきたが、それは諸能力に関する分類ではない。ここであげた分類にはすべてが含まれ、証明を必要としないし、他のどんな体系にも組み入れられる。
2.あらゆる能力は真なるものである。
3.どの能力も同じではなく、活動的と意志とは異なるし、楽しみは知覚とは異なる。
LI
我々の科学がいかに強大なものとなろうと、我々は無限の暗闇で光を探しているに過ぎない。一度無限のなかに入ると、常に無限はそこにある。
LIV
1860年11月25日
あらゆる人間は自分自身の形而上学者を持っている。
LV
1860年11月25日
我々がもつはじめの概念は、単純ではなく複雑である、基本的な諸概念は独立しておらず、複雑に絡み合っている、にもかかわらず、正確に言えば、我々はアプリオリな統一された命題をもっていない、この公準が唯一の定義であるという結論に私は到った。
LXIV
1864年3月27日
科学が哲学なしには進展できないように――なぜなら、(カントの表現を用いれば)純粋な帰納は盲目であるから――哲学は科学なしには進展しない――なぜなら、純粋な還元は空虚であるから。
科学と哲学はともに進まなければならない。科学が哲学を脇にのけるなら、中国になろう。哲学が科学を研究しないなら、現在あるがままにとどまろう。
哲学が、事物はそれ自体知り得ないかどうか、属性を通じて知りうるのかどうかといった問題をもてあましているなら、問題を次のように見るとよい。実体は出来事において恒久的なものである。質量は現実において恒久的であり、真に実体である。しかし、一時的なものだと想定されるなら、それは名目上偶然的なものである。
哲学をして、動物学上の分類の概念を分析させ、そこから本質的なものを引きださせよ。
自然は示唆し、精神は示唆をもとに考える。
LXX
1866年11月20日
可能な経験に関して問題とならないものは、事実に関する問題ともならない。
LXXII
1867年6月18日
人間は知的な動物の生産に向けた自然の最初のエッセイである。彼は自然そのものではないが、おそらくはその予言者である。
LXXIII
1868年2月17日
実際的に言うと、もっとも進歩した科学の最も重要な部分、機械学と天文学は、諸事物を形へとより合わせる形而上学である。形態学もまたそうである。
LXXV
1888年3月17日
書くことにおいて最上の箴言は、おそらくは、自らのために真に読者を愛することである。