C・S・パース「我々が神の本性を推論できることを証明するための宗教的思想の限界についての試論」

 

 我々はなにを論議することができるだろうか。理解できないものについてはなんであれ論議できないのだろうか。自然や想像のなかに存在しないものについては論議することさえできないのだろうか。三段論法で論じられるものについてはなんであれ我々は論議できる。定義できるものはなんであれ三段論法で論じられる。奇妙なことに、我々は決して理解できない多くのものに、わかりやすく理解可能な定義を与えることができる。

 

 このことについて二つの例をあげよう。一つは単純なものであり、もう一つは実際的なものである。誰かがOGのことを語り、それが四辺ある三角形であると言われるとき、あなたがそれはなにを意味するかと問うとしよう。誰ももてないようなそんな概念を彼がもっているはずはないとあなたは示そうとするだろう。考えもできないものについて推論を巡らせることになろう。この例はあまりに初歩的だ。二人の人間の人格が入れ替わることを想像できる者がいるとしよう。私はその疑わしい想像について思い巡らし、そうしたことが信じられないことを示そうとするだろう。

 

 それゆえ、我々は定義されているものがなんなのか想像できないときでも、定義を理解することはできる。言い換えれば、ある概念について総合することはできない。あらゆる事例について、その原因はただ一つであり、その場合我々は総合することができない。にもかかわらず、理性はそれらの事例を二つに分けるが、それについて語ろう。いまのところ、定義できるものはなんであれ議論できると結論するだけで十分である。



II

 

 無限は定義できるだろうか。それは単純な概念ではないだろうか。単純な概念という言葉は、論理学においては形而上学的な意味をもっていない。形而上学においては、単一の働きの力によって形づくられるものを意味している。この意味において、もっとも単純な諸観念は定義できる。というのも、それらの複雑で交錯した関係から、それらが共に働く道筋をたどることができるからだ。そのようにして私は無限の定義を提示する。

 

 我々の思考の対象を(便宜上)一つの出来事とみなし、考えよう。あらゆる出来事は一つの関係であるか、依存である。例えば、宙を飛ぶボールの運動は、その前の瞬間のボールとの関係であり、無限の基礎的出来事からなる複合的な出来事である。あらゆる依存は、三つの必然的な様態の一つを有している。第一の様態は共有である。そこでは同じ瞬間にある二つのボールのように、依存はなく、それゆえ出来事もまったく存在しない。第二の必然的様態は因果性であり、依存の様態でもあり、各瞬間にあるあらゆるものはその前の瞬間に依存する。第三の必然的様態とは流入であり、実質と形相、性格と行為、事物と性質のような依存の様態である。私はこれらを依存の必然的様態と呼ぶ。それは、必然的依存の諸様態についてのよりもっともらしい哲学的な表現に過ぎない。

 

 依存の必然的様態のみならず、あらゆる様相には三つの完全な等級がある。第一は可能性である。そこでは我々はあるものを考え、それはどのような様態でも存在していない。第二の完全な等級は現実性である。そこで事物は存在し、あるいは生起する。第三の完全な等級は必然性であり、そこではそれ以外ではあり得なかった。これらを完全な等級と呼ぶのは、————主観的なものでは全くなく何かしら客観的な————可能性や数字的蓋然性によるのでも、三段論法的な必然性によるのでもなく、様相の等級をあらわしていると考えるからだ。

 

 様相の完全な等級だけでなく、あらゆる等級には三つの継起する段階がある。第一が無で、第二が実在、第三が完成である。それらは完成へ向かう段階であるから、継起的であり、後退でも同時でもない。

 

 等級の継起的段階ばかりでなく、あらゆる段階は三つの時間的表現をとる。後退、同時、継起である。

 

 表現の三つの形式的直感がある。意識、空間、時間。

 

 直感の三つの総体量がある。観念、実質、形相。あらゆる観念を我々は「観念」などと呼ぶ。

 

 量の三つの無限の性質がある。統一、多様、全体。限界を超えたものであるゆえに無限。

 

 最期に性質の三つの流入的依存がある。否定、現実、無限。

 

 無限が何であり、概念の図式のなかでそれがどこにあるか示すために私はカテゴリーを経めぐってきた。無限であり得るのは諸性質であり、無限は二つの方法で定義される。それは、量の諸性質としての統一、多様、全体という述部だと言える。あるいは現実を超える性質の流入的依存だとも言える。

 

 このことによって我々は無限を考えることはできないが、判断することはできることが説明される。というのも、我々は現実に共通するもの、あるいは共通しない何ものかについて述べるからだ。たとえば、無限の線の2分の1は、その線の半分であると我々は言う。ここで我々は無限が性質の流入的依存であることを前提としている。第二の例は、無限が無視しうると言うような場合である。この場合の前提は無限が現実を越えるということである。

 

 我々が観念としてもつ無限とは何であり、この観念は直感の諸量についての観念とどう異なっているのだろうか。

 

 私はここで考えうるもの二つのクラスに区別をもうけたい。ある対象が提示されたとき、我々はすぐさま次のような分析を行なう。まず最初に諸要素についての共通する誤った一覧をあげよう。

【ここで図が入るが、本が見当たらないために、正確な図を描くことができない。】

                  (図)

                     物自体

                     対象




                     流入的依存



                     現象

 

                     主体

 

 この図についての反論は、現象だけが我々の意識するものであり、心的な要素は物自体には入り込まず、流入的依存は実際には対象と物自体の間にあり、現象と対象の間にはないということだ。この分析は次のようにあらわされる。

【上に同じ。】

     (図)

                     考えの対象であるもの



                     流入的依存



                     魂にある観念や印象

 

                     魂

 

                     意識の領野、魂の表象。

 

                     思考、観念の表象。

 

考えの対象であるもの、————流入の源————それを私はものと呼ぶ。考えでないものはなんでも非思考と呼ぶ。