一言一話 139

 

歴史と文学

 

 

歴史事実の筋金

 

 歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の哀惜の念といふものであつて、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます。それは、例へば、子供に死なれた母親は、子供の死といふ歴史事実に対し、どういふ風な態度をとるか、を考へてみれば、明らかな事でせう。母親にとつて、歴史事実とは、子供の死といふ出来事が、幾時、何処で、どういふ原因で、どんな條件の下に起つたかといふ、単にそれだけのものではあるまい。かけ代へのない命が、取返しがつかず失はれて了つたといふ感情がこれに伴はなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死といふ出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなほ眼の前にチラつくといふわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在つたといふだけでは足りぬ、今もなほその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知つてゐる筈です。母親にとつて、歴史事実とは、子供の死ではなく、むしろ死んだ子供を意味すると言へませう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死といふ実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。さういふ考へを更に一歩進めて言ふなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなほ愛してゐるからこそ、子供が死んだといふ事実が在るのだ、と言へませう。愛してゐるからこそ、死んだといふ事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであつて、死んだ原因を、精しく数へ上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。

歴史を歴史たらしめるのが、愛ばかりではなく、感情、果ては雰囲気、感じでもあること。