ブラッドリー『仮象と実在』 236

[絶対を幸福であるといえるだろうか。]

 

 我々は実在がひとつであり、単一の経験であることを見てきた。我々はこのことから困難な問題を考慮することに移ることができる。絶対は幸福であろうか。これは快楽が絶対の述語となりうるかを意味しているだろう。そして以前の章で見てきたように、それは許されることではない。我々は快楽が苦痛を上回る均衡があることがわかり、経験から、そうした均衡の混合した状態が心地いいものであることを知っている。絶対がこの快楽の均衡をもち、享受することは確かである。しかし、それ以上先へ進むことは不可能であるように思える。快楽は付加を加えられることによって補われ、変容することが考えられる、我々が快楽と呼ぶものがそのまま残っていないこともある。その心地よさは確かに失われることはあり得ないが、全体の他の側面をともなった過去の認知が混じり合うこともあり得る。そのとき、絶対はおそらくは厳密に言うと、快楽を感じていないのだろう。しかし、もしそうなら、快楽を含んだなにかがあるというだけということになる。

 

 しかし、この点については、すでに部分的に扱った(第十四章)疑いと出会うことになる。我々の結論は、結局のところ、正しいものなのだろうか。結局のところ、絶対のなかには、苦痛の均衡、あるいは苦痛ではないとしてもよくない状態のなにかの均衡が存在することは可能ではないだろうか。この困難な点について、私はすぐに真と思われる結論を述べようと思う。こうした均衡は、最低限の可能性という意味においては可能である。私には意味のないものに思われないし、自己矛盾であるところも見いだされない。もし我々が絶対はひとつであり経験であることを否定しようとするなら、その否定は意味のないものとなり、あるいは自ずから肯定へと変ずるだろう。しかし、それが幸福の否定の場合どうなるかについては私にはよくわからない。

 

 我々は自分の経験を除いて、苦痛と快楽についてなにも知ることができないことは確かである。その経験において、ほとんどすべてがある方向を指すことは確かである。私の知る限り、苦痛が統一や調和と共存可能であることを示唆する特別な事実は存在しない。そして、もしそうなら、なぜ我々は「それが苦痛の本性であり、それゆえ、この本性を否定することは自己矛盾に落ち込むことになるのではないか」と主張してはならないのだろうか。端的に言って、そこに含まれていない他の可能性とはなんだろうか。私はそれを述べるよう努めてみよう。

 

 我々が観察するできる世界は全宇宙でないことは確かである。我々が観察できないものがどれほどあるかはわからない。至るところで、未知の無限の付加物が可能である。経験を通じて、快と苦痛の行動が変化するような、我々には不可視な諸条件が存在するのではないだろうか。こうした方向には、苦痛に本質的だと思われるものは実際にはそうではない。それは実際には、偶然でしかない目に見えぬ諸条件からきているのかもしれない。そうなら、結局のところ、苦痛は調和や体系と両立しうるだろう。これに反論して、そうした仮定に従えば、苦痛そのものは中立化され、苦痛に満ちた状態もすでに過ぎ去っていると反論されることがあるかもしれない。偶然的なものがある範囲においては本質的であり、本質的なものが結果的に間接的なものになることがあると主張されるかもしれない。しかし、こうした反論が力をもっているとしても、それらが結論であるとは見いだせない。最終的には、苦痛に満ちた宇宙という観念は意味がないわけでも、明白に自己矛盾であるとも思われない。そして、それを許容せざるを得ないのだとすれば、厳密に言って、我々はそれを可能だといわねばならない。

 

 しかし、他方において、そうした可能性は、ほとんどなんの価値ももっていない。もちろんそれは行くところまで行けば、確かな知識となる。我々は、ある限度において、世界の性格が無限の増補を認めることを知っている。ここで提起された増補は、既知の実在の一般的な性質と調和しているように思われる。それは事物の一般的な性格に抽象的に従うという好都合なものである。それを越えると、個別な証拠は切りくずほどもないように思える。しかしそれに反対して、特に我々が主語について知るものにすべてが存在する。かくして、可能性は評価するほどのわずかの価値も残されていない。我々にいえるのは、それが存在し、それ以上考える必要はほとんどないということだけである。