一言一話 141

 

ヴォードヴィリアン

 

わたしは、いまでも、自分を、本質的にヴォードヴィリアンであり、歌と踊りの人間だと考えている。わたしが知っていたヴォードヴィリアンたちのほとんどが、じつにすばらしいだった。彼らの九十パーセントは、ろくに学校も行ったことがなかったが、しかし、彼らはみな、いきいきとしたをもっていて、見る者の関心を自分たちのほうに完全に吸い寄せ、観客を釘づけにしてしまうのだった。ヴォードヴィリアンたちが知っていたというのは、わたし自身、やがて身をもってそれを理解し、信じるに至ったのだが、つまりは、良し悪しをきめるのはお客だということである。ヴォードヴィルの本質とは、それがいいかわるいかに関しては、お金を払って見にくる観客の意見だけが正しいということなのだ。エンタテインメントの世界では、芸人が自分自身に関してどう考えているかということなど、その価値を決定する基準にはならないことを、わたしたちはわきまえていた。それで想い起こされるのが、サミュエル・ジョンスン博士の次のような言葉だ。

 「芝居の法則は、芝居の真の保護者たる観客がつくり出す。そして、ひとをよろこばせるために生きるわたしたちは、生きていることそれ自体をよろこびに思う」

 ヴォードヴィリアンたちは、絶え間ない試行錯誤と不断の努力を通じて、どうしたらお客をよろこばすことができるかという方法を発見していった。彼らがなにかを言うとき、それは、だれが聞いてもおかしく、だれにとっても心の底から笑える台詞であった。台詞のない芝居の場合だと、体をなにかとてつもないやりかたでつかうのだった。彼らは、そういった芸を完成させるのに何年もついやした。だから、自分の仕事に熟練していたが、それでも、自分たちの芸とお客の両方を、すこしでもなおざりにするようなことはしなかった。

ギャング映画の印象が強かったキャグニーとヴォードヴィリアンが最初は結びつかなかった。