C・S・パース「/形而上学についての論考/」 1
/形而上学についての論考/
1861年8月21日————1862年3月30日
序
この本の私の意図は三段論法のスタイルで書くことである、というのも、形而上学においては、どんな小さな前進にも注意が必要とされるからだ。散在する意見は、これ以後用いられる諸観念の種子を与えようと意図するものである。
1861年8月21日
内容
序章
第一巻
- 人間、諸事物の尺度
- 完璧の本性
- 折衷的一瞥
第二巻
カントのカテゴリーについての研究
全体でおよそ100ページになろう。
序章
- 形而上学的思考の範囲、基礎、構造
形而上学という語はアリストテレスの著作の表題からきており、著者によると、この科学は「それ自体として望ましい、知識のためのもので」、他の分野から秀でている(アリストテレス『形而上学』1.2.7)
つづく三つの節で、私は三つの光のもと形而上学を考えざるを得ない、すなわち、
- 哲学として。
- 心理学の派生物として
- 諸概念の分析として
- 1.形而上学の定義について
サー・ウィリアム・ハミルトンによれば、「形而上学はある考えを部分に分け、それを理解し決定することである。」
私は、定義は概念において等価であるものの言明だという。
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その学術語の体系によって、サー・ウィリアム・ハミルトンは自分の学派ばかりでなく、イギリス哲学すべてに多大な恩恵を与え、彼らは言葉と意味を固定できると信じている。彼らの一員でないことを私は誠に残念に思う。間違いなく、安定しているのならそれが最上である。にもかかわらず、ある用途において言葉をつなげ止めていても、我々が様々な適応を進めるに当たっては、事物の概念としてその意味を変えてしまうことになる。
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- いかなる定義も対象の意味以上のことを言うことはない。しかし、サー・ウィリアム・ハミルトンなら、それを対象が成り立っている状態だと言うだろう。おそらく、それでは言い過ぎである。
- 定義は、ある事物、ある言葉、ある考えに関するものでなければならない。そのどれかがなにかを言うことは、それに概念における対応物を与えることである。しかし、アリストテレスの言葉にあるように、「定義はある事物が何であるかを意味する文である」ことはあらゆる人間が知っている。それゆえ、私の定義についての定義は正しい。
[定義についての最良の議論は、カントの『純粋理性批判』第一章第一節にある。]
観察から得られる科学は何であっても副次的なものとなり得る。
副次的な事物が先行する事物に優先権(つまり支配権)をもつことはありえない。
∴形而上学は観察から得られるものではない。そして、ア・プリオリに得られた知識は他のあらゆる知識に優先している。ア・プリオリな科学はそれ自体のために欲せられる。それはまた知識のために必要でもある。∴形而上学はア・プリオリな科学とその範囲を同じくしている。だが、「ア・プリオリ」に含まれる概念は形而上学からきているので、それを形而上学の定義とは言えない。しかし、何ものにも従属しないものをあらわす概念はない。
哲学は一つの科学であるが、その手順のどの部分においても観察による部分はない。形而上学はそれゆえ哲学と広がりを同じくしている。だが、哲学に関する考えが形而上学的なものでないなら、これもまた形而上学の定義ではない。というのも、「哲学」は思考の中間的過程を経なければ「形而上学」を示唆することができないからだ、しかし、
等しい考えというのは何ら中間的な概念を経ることなしに互いを指し示せる。
この中間的な思考とは、哲学はあらゆる科学の条件であり、それは我々が直接知るものを扱い、諸要素から進行する。それゆえ、形而上学とは第一義的真実の哲学である。これが私の定義である。
形而上学が科学であり、経験から得られるものではなく、真理を扱い、それらの真理はあらゆる科学の第一条件であるべきだというのが絶対的で必須なことである。しかし、これは定義が述べていることでしかない。
その上、第一義的真実についてのあらゆる哲学はそれ自体のため、知識のために欲せられるものであり、他のあらゆる科学に優越している。
それゆえ、私の定義は本質的な何ものも逃すことなく、付随的な何ものも付け加えていることもない。それゆえ、それは正しい。
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この定義が完璧であると主張していると誤解しないでもらいたい。哲学において労働の始まりではなくむしろ終わりであるのが事物である、とカントは言った。私はこの間違いに陥るには遠いが、形而上学が何であるか見るために形而上学の三つの見方をとるべきである。第一にそれを主観的に、第二にそれを客観的に、そして第三に実際的といった言葉であらわされるような方法で見てみよう。
それはまた、この章では多くの推量が許されており、形而上学の必然的な判断がときに不可能だと感じるがゆえにでもある。
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研究課題としての形而上学の有用性について。瞑想は形而上学ではないだろうか。それは瞑想と同じく精神を展開していく過程ではないだろうか。知恵とは精神を展開していくことではないだろうか。
ある命題を理解するには、そこで使われている言葉を理解する必要がある。ある命題の概念はその言葉のなかにある。それゆえ、第一哲学とは命題からでも、命題の連続である書物からでもなく、瞑想から学ぶべきものだ。我々に新たな概念をもたらす瞑想は、思考の発達である教化となり、知恵と呼ばれる思考のなかに精神の発達が見られることとなる。
なぜ形而上学は読むのが困難なのだろうか。なぜならそれを本に入れ込むことができないからである。本のなかで示唆することはできるが、各精神がそれを自分自身で展開せねばならない————各人がそれぞれ形而上学者とならねばならないのだ。