C・S・パース「/形而上学についての論考/」 2

 

 通常、あらゆる形而上学はある根本的な区別に基づいていると認め、あるいは仮定されている。形而上学の新たな体系のすべては、ある特殊な区別に基づいている点でそれぞれ固有の長所をもっているのは事実である。私の体系が基づいている区別とは、潜在的思考であるもの潜在的思考対象であるものとの区別だ。私の思うに、事物と人間の知識とのごく一般的な誤った見方は次のようなものである。————第一に、主体、自我が存在する。知られる事物とは、意識の作用、つまりはその影響によってのみ知られる。それゆえ、区別は(2)まったく未知の(ある哲学者たちによれば理性による場合は除く)ものとして存在する物自体あるいは事物と(3)対象、あるいは思考されるものとしての事物である。(4)意識の作用あるいは現象が存在し(5)対象と現象との間には因果関係が存在する。

 この見方に対する反論はこうである。

  1. もし物自体がそれについて考えられるものなら、それは知りうる。考えられないものなら、それは意識と関係をもたない。しかし、それはまったく未知のものでありながら、知識の根拠としてあらわされている。
  2. 「思考されるものとしての事物」には心的要素が含まれているが、精神はそれが知る事物に実際には影響を与えない。それゆえ、対象という言葉は物自体と同じく単なる論理的形式で理解不能である。

 私はそれらの関係を次のようにあらわそう。(1)魂が存在する。(2)魂として我々が知る意識の領域が存在する。(3)思考されるものとしての事物が存在する。(4)魂に働きかける力が存在する。(5)魂に刻まれる観念や印象が存在する。(6)意識にあらわれる思考や観念がある。

 しかしながら、こうした部分的な見解をおいても、各科学の可能性や有効性が第一哲学の区別に基づかねばならないことは明らかである。この点を例をあげて示してみよう。

 第一に、一般的な哲学の可能性と有用性は、つまり理解の経験への適用は、経験される事実を除いたところ、経験される対象のある種アプリオリな真実によっている。

 また、心理学の根本的な区別は魂と身体である。これが形而上学的区別であると示そう。魂は自ら動くものである。身体は動くが自ら動くのではない。ところで、私が魂は自ら動くと言うとき、それが力を発しているというのではなく、ある量の力がそこに常に働いており決してそれがなくなることはないことを意味している(それを通り過ぎる力はその内部にありそれに属する力による変容を余儀なくされる)。しかしながら、あらゆる力は何らかの変化のうちにあらわれねばならないが、空間のうちに変化はなく、空間以外では事物のあらわれはなく、実体をあらわにするのは実体のなかにある力だけである。それゆえ、魂は内部にあらわになる。一方で、身体のなかでは、ある原子のある瞬間の力は次の瞬間には別の原子に移っている。それゆえ、身体のあらわれに統一はない。それゆえ身体は、広がりを認める直感の形式においてのみあらわれることができる。しかし、内的感覚ではそうはならない。それゆえ、身体は外的なものとしてのみあらわれる。

 一般的な哲学が形而上学的区別に基づき、心理学がもう一つの枝だとするなら、心理学思考についての科学————形而上学そのもの————はどんな形而上学的区別に基づいているのだろうか。形而上学は我々が直接的に知るものすべてについての哲学であろうか。この区別は明らかに我々が直接知るもの————思考、と、我々が間接的に知るもの————思考されるもの————あるいは対象についての思考、思考の対象として知るもの————との区別に基づいている。

 

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 あらゆる哲学が基づく区別とは、アプリオリなイメージとアポステオリなイメージの相違にある。

 

 心理学が基づく区別とは、内的イメージと外的イメージの相違にある。

 

 形而上学が基づく区別とは、イメージとしてのイメージと表象としてのイメージの相違にある。

 

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 純粋に心的なものがどのようにこうした区別をするのだろうか。前の節では、主観的な見地に立てば、形而上学は心理学がその一部であるあらゆる哲学と考えられた。客観的見地に立てば、形而上学は心理学の一分野であるように見え、最終的には心理学以外の何物でもないものとなろう。だが私はこれらの学問を異なった区別のもと基礎づけているのだ。それらをどのように調和させるのか。おそらく、アプリオリなイメージはイメージとしての限りにおいてのアポステオリなイメージであり、アポステオリなイメージは表象として喚起された限りにおけるアプリオリなイメージであり、イメージをイメージとしてみるためには、不可避的にそれを内側から得ねばならず、それには表象ではなく直接的意識としてみる以外ではあり得ない。

 

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 もちろん、形而上学の真の価値はその実際的な適用にある。もし外的世界にも我々の内部にも見いだせず、アプリオリに得るものもアポステリオリに受け取ることができるものもなく、結果的に表象を決してもつことがないなら————

 

もし深淵がそれは私のなかになく

海がそれは私のなかにないと言うとしたら

 

にもかかわらずそうした知識が直接的な意識にあるなら、そこには物理学、宇宙論、科学、その他哲学や心理学ではなく、形而上学以外の何物もなくただそれだけが見いだされよう。さて、そうした知識が存在する。完全さの知識だ。従って、あらゆる高次な生命は形而上学によって強化される。そして形而上学者は一般的には聖人であることを我々は見て取る。

 第二の、形而上学についての否定的な特徴としては、もう一つの側面から見ると、純粋な宗教であるそれは、実際的な意味をもたず、もち得ないことである。たとえば、祈りの効果について、人の知性はそれを裏書きはできない。そして、知性が支配的であるとき、祈りを利用しようと望みはしない。理性に信頼を感じないとき、我々は祈る。なおまた、イメージを表象としてではなくイメージとして研究する純粋な形而上学者は、それによって現実を探求しているわけではなく、イメージが基づく意識の事実を認識しているに違いない。

 形而上学宗教一般に何ら攻撃を加え得ないように、宗教が形而上学一般を支えることもできない。というのも、矛盾なしにどうして宗教はあり得よう。そして、形而上学では、矛盾は不完全性の単なるあらわれであり、それは人間の信仰同様形而上学からは除外される。宗教は我々が知っていることしか語らないことになろう。というのも、あらゆる形而上学的体系が矛盾に満ちたものにならざるを得ないことを我々はよく知っているからだ。そして、形而上学の欠点を拾い上げる唯一の方法は、その基本となるものを乗り越え拾い上げるしかないのである。