C・S・パース「形而上学的————Odi Profanum Vulgus————1862年3月30日」
- 弁証法の不十分さ
- 1.弁証法家の立場
第一章は形而上学の真の観念の発達をたどろうとした。概念の三幅対、それらを総合することが不可能であることは、当然のことながら、形而上学の三つの本質的な学派を生みだす。ドグマ的、心理学的、論理的学派である。各学派は、部分的な概念に頼ることで、現実に想定される通常のあり方とは矛盾することにならざるを得ないにもかかわらず、誤用されがちである。それらの過ちは次のようにあらわせよう————
ドグマ主義の誤用を私は弁証法と呼ぶ
心理学 超越主義
論理学 合理主義
全二者について、序章でそれぞれ一章を当てよう。私自身は論理学派に属しているので、その誤用は第一巻に繰り返しあらわれるであろうから、特にここで考察する必要はない。
形而上学が他のすべての科学に先立つ哲学であるという考えは、それが単に我々自身の意識の研究ではないこと、概念を分析する以外我々の知識にはなにも付け加えないことまでいくとき、弁証法、つまり、第一原理からの精巧な推論によって真理を探究する体系を生みだす。かくして、弁証法がドグマ主義からのみ生じるものであることは確かだが、心理学者や論理学者によっても追求されうるものなのである。
ドグマ的弁証法の基礎となっているのは、必然的な真理の光は無限の理性に関与するということである。
証明。ドグマ的弁証法家に従えば、科学に先行するものはそれ自体科学である。つまり、その他あらゆる知識が導きだされるような(経験の小前提を経由して)大前提が存在する。
その真理が与えられていないような前提からいかなる知識も引きだすことはできない。∴第一原理の真理は与えられている。
なにかから導きだされるものに真理が与えられることはあり得ない。
∴第一原理の真理はまさしくその命題自体において与えられねばならない。その発言が必然性をもつということは、その主語のなかに述語が含まれているか、事実として自律した存在をもっていなければならない。しかし、科学での述語は主語が意味するものを超える。
∴第一原理は(諸事実として)自律的な存在をもたねばならない。
神以外に自律したものは存在しない。
∴これら第一原理と呼ばれるものは、神に関する言明である。
我々の本性にも、神の神的な性質が関与しているのを知ること。
∴ドグマ的弁証法家によれば、我々は内的な理性の光のなかで神的な性質に参与している。
公準は神的な理性に参加していることを示す。
証明。公準は思考である。
我々のあらゆる思考は神からくる。
我々は神から来るものをそれと同じ何らかの性質がなければ、本性上受け取ることはできない。
性質の参与とは本性の参与である。
実体の統一は神的本性にとって本質的なものである。
これが、一般的な形でのライプニッツの考え方である。
心理学的弁証法の基礎となるのは、意識が考えの対象となるもののイメージを持つだけでなく、対象そのものを直接に把握するということにある。
証明。心理学的弁証法家は、単なる意識の研究は、単に印象の研究ではなく、事物それ自体についての科学であることを主張する。
意識はそのなかにあるものについてのみ断定を下す。
∴この体系は、事物そのものが意識のなかに取り入れられていることを意味している。
それは直接的知覚の理論である。
論理的弁証法の基礎となるのは、抽象物のあるものは実在であるということにある。
証明。抽象についての科学が事実に関する知識を与えるとそれは主張する。
もし抽象が単なる否定であるならそれは真ではあり得ない。
幾つかの抽象は実在である。
証明。我々は必然的存在の概念をもっている。
必然性とは概念そのものからその現実性を与えられている。
∴それ自体で存在に現実性を与えるような抽象が存在する。これはアンセルムとデカルトの議論である。
- 2.弁証法への反駁
A.一体系として
I.哲学的反論。先立つ原理が許されない限り科学は不可能である。光学の原理が正しかったときにのみ、我々の視野は知識を与える。
1.形而上学はあらゆる科学に先立つ原理である。それゆえ、それ自体は科学ではない、科学であれば、先行する原理をもつことになり、もはやあらゆる科学に先行する原理ではなくなるからである。
2.形而上学は意識の科学である。弁証法家は、この研究において我々は外的事実に関する知識を見いだすと主張する。しかし、そのようにして得た最初の知識はその妥当性を主張する先行する原理をもっておらねばならず、そうした原理が外的事実の知識であり、形而上学から得るたぐいの第一知識に先行するものを捜しているなら、それは形而上学には見いだし得ない。形而上学の先行する原理といえど、意識に関する科学の妥当性を主張するだけなので役には立たない。
3.形而上学は概念の分析である。あらゆる科学は総合的である(述語が主語の範囲をでる)。これまでの総合的真理の原理のすべては、主語――事実の表象――を超えてその向こうにあるなにかの事実との対応を述べることによって総合的だった。分析の原理とは一般的な同一性の原理――あらゆるAはAである、でしかないときに分析的だった。それゆえ、分析も先行する原理も総合的な科学の基礎として役立つことはあり得ない。
II.心理学的反論。存在するがまま事物についての我々のあらゆる知識は、我々の意識によってまたそのなかで変容している。
1.形而上学は他のあらゆる科学に先行する。それ故、形而上学的知識は、他のあらゆる変容に先立って起こる意識によるそしておける変容である。この先行は原理の先行である。しかし、それが原理であるという意味で他のものに先行するものなどはない。それゆえ、形而上学は科学の役には立たない。
2.形而上学は意識そのもののみを研究する。もしそうなら、それはそれ以外の何物も顧みず、意識にあるもの以外のなんの知識も持ち得ない。それは我々がすでに知っていることである。
3.形而上学は概念の分析である。それ故、形而上学的知識は、我々が以前に意識したものを分析することによってもたらされる意識による、あるいはおける変容である。そうした変容は新たな事実の知識ではないので、新たな事実によって生みだされることはない。
III.論理学的反論。三段論法の結果は決してその前提を越えることはない。
1.形而上学は他のあらゆる科学に先行するようなものすべてである。それ故、一揃いの命題があれば、他のあらゆる科学が論理的に導きだされうる。それ故、形而上学は他のあらゆる科学を含んでいるはずだが、あらゆる科学がそれ自体に先行するというのはばかげている。それ故、形而上学は科学ではない。
2.形而上学は人間の意識にのみ関連する。それ故、その結論は我々がすでに意識していないような何ものも含んでいない。
3.形而上学は概念の分析である。それ故、その結論は何ら総合的内容をもっていない。
こうした反論については次のように言えるだろう。
1.ある科学、神についての科学が存在し、それはあらゆる科学に先行する。形而上学は他のあらゆる科学に先行するところのすべてである。∴形而上学は神性の知識である。
2.人間の意識そのものに、自身は意識していないでも、創造者のあらわれがある。形而上学は心理学である。∴形而上学は意識を超越する知識である。
3.ある種の概念、自らから出て現実の存在を必然的して、必然的に存在するような存在の概念がある。形而上学は諸概念の分析である。∴形而上学は実在する内容の科学でもあり得る。
この回答の論理は形式的には正しく、神性についてのいかなる議論も次のような事実に依存していると言えよう。
1.神性についての科学が存在する。しかし、この事実は他のすべての科学に先行するものではなく、語られている科学に従属するのは明らかである。
2.意識は創造者のあらわれである。しかし、この事実は純粋な意識のみを考察しても発見され得ない。
3.必然的存在の概念が存在する。しかし、それは分析的命題ではない。
それ故、こうした議論の基礎は純粋に形而上学的ではなく、結果的に、議論は純粋な形而上学問いうよりは応用形而上学に属している。さてあらゆる科学には
1.必然的に科学に先行するものの適用がある。
2.人間の意識の信頼性について何らかの仮定がある。
3.主語を述語づけする分析が存在する。それ故、あらゆる科学は応用形而上学であり、形而上学の適用により事物を発見できるというのは、我々がそれを発見できること以外を意味しない。
B.一傾向として
体系的弁証法は厳密に形而上学的前提をとっているようなふりをしている。私はそうした体系の妥当性に反駁し、実際の前提というのは厳密に形而上学的なものではなく、いえば、ごく常識的なものであることを示そう。弁証法家は、かくして、形而上学者ではないのだが、そう自称し、その主張は一般的に認められているので、ある探求傾向をもつ弁証法家について少々述べておく必要がある。
1.第一に、自ずからわかるのはこうした前提での誤りやすさである。それは正確に考えるのにもっとも困難な問題であり、というのも、それは抽象的で、抽象的なものを考えるには、実際には、想像力の力で着物をまとわせ、一般的なものとは同じではない特殊なものを考えるという形をとるよりないのだ。
しかし、人間は抽象を検証するこの骨の折れる仕事を無視しがちである。衣服をまとわせることを忘れ、抽象の代わりに言葉について語っている。ハミルトンの学派は、私からすると、この誤りによって非難される。
しかし、たとえ我々が非常に勤勉で良心的だとしても、人間の間違いやすさを克服することはほぼ望めないだろう。我々はあらゆる探求において、具体的なものを考えることで過ちを犯すが、誤っているということは真理にある程度近づいていることでもある。反対に、抽象の世界では、広がりがないので、その結果、最小の誤差でも最大の誤差と同じく絶対的である。
2.第二に考察されるのは、アプリオリな抽象的推論では、各三段論法において、我々は二つの前提をもたざるを得ない。このことは、抽象の世界では、同じ意味の二つの命題は存在しないという事実からくる。弁証法的な探求はベーコン的方法と比較すると大変な不利があり、というのもベーコン的方法では、データの誤りの多くはあらゆる蓋然性のなかにおいて互いに打ち消し合うからである。――誰も金的を射るわけではないが、すべての弾はほぼそれに集まっているのである。
(黒点を中心にばらける印の図がある。)
その上、前提の蓋然性は、ある程度、食い違った観察からくる変異の総量によって決まっており、確かさがどの程度に達しているのか科学的かつ正確に知らない限り(弁証法では決して知り得ないことだ)、あり得る誤りの大きさもそれに対する見解ももち得ない。
一つの与件をある前提に任せきるのは、物理科学には見られない無分別である。どれだけ多くの観察が重力についてなされたか、化学的反応について、季節の移り変わりについて等々どれだけ多くの観察がなされたか考えてみるがいい。さて、ある前提が十分の一の割合で価値のない千のデータに基づいているとすると、前提が誤りである確率は、20オクティリオン、ノニリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン、ヴィジンティリオン分の一になる。
3.第三の考察は、弁証法的議論の極端な長さである。長いつながりをつくるには、三段論法に三段論法を積み重ねねばならず、そのどれがなくとも結論は崩れてしまう。[確率10割は確実である。確率5割は支持しかねる仮定でしかない。]もし我々が15の三段論法のつながりから結論を引きだすとすると――それぞれの前提の正しさが9割、論理過程を間違いなく辿れる確率が9割、結論の確立が5割1分9厘だとすると、我々がそれを証明できるのは26度に1回ということになる。たとえ各前提の確率が9割9分だとしても、結論は5割8分8厘でしかない――賭けるには低すぎる確率だ。
その上、別の根拠から検証されないような弁証法的議論は存在しない。我々の議論での確率を5割8分8厘とし、別の根拠による確率を5割1分9厘とする。その場合両者を合わせた確率は5割7分となり、7回に1度証明されるということになる。
蓋然性というのは最終的には判断の問題である。私について言えば、一つの議論について5割7分から6割より高い蓋然性がある弁証法から引きだされた結論でも与しないだろう。
形而上学的に定義され、形而上学的に考察された神の存在は、確率としては9割3分以上にはなるまい。
弁証法による結論で7割5分以上、おそらくは6割8分以上の確率に達するものもあるまい。
このことをベーコンの方法と比較してみるがいい。
C.意図として
弁証法は体系というよりはある風潮にまで格下げするべきであること、そしてそれは真の風潮とはなり得ず、ある意図にとどまることを私は示した。この観点においても、三つの理由によって根本的な誤りがある。
1.それは一般常識による言い換えや、これから学ぶべきことを観察によってすでに知っていることによって言い換えようとする。つまり、怠惰である。
2.それは人間の思索を事実の代用とする。傲慢である。
3.知識を付け加えるために分断し、それによって考える。軽薄である。
- 3.真のドグマ主義についての推論
かくして我々は、公準が神的な理性への参与を示しているにしても、哲学が科学ではないことを見た。それ故、あらゆる公準は第一原理ではなく、我々の知識が依存する霊感から派生するものであり、命題からではないことを推論せねばならない。それらの霊感が我々に真理の力を与えることもあることに注意しよう。それには霊感の腑分けをし、それらが与えてくれる認識に関わる要素を通じて互いを区別することが必要である。別の言葉で言えば、概念の分析である。
第二に。我々はおそらく意識のなかに思考対象をもっているが、にもかかわらず、意識の研究は我々がいまだ知らないことをなにも伝えてはくれない。純粋な意識は、異なったことを考える能力があるといっても、経験しないことはなにも考えない。だが、もし我々がすでに知っていることを分類するなら、新たな経験により容易に対処することにはなろう。この分類が概念の分析である。
抽象物は意識と世界にあらわになり、それらをある場所で研究すれば、別のところで役立つことになる。弁証法にも多くの真理が存在する。
第三章 超越主義の無用さ
- 超越主義の出発点
形而上学が人間意識の研究であるという見方が一方的に推し進められ、それが本当は哲学であり、概念の分析でもあることが忘れられるとき、超越主義(批評のよりよい名だが)が生みだされるが、それは我々のなかにあるごく普通の真理に表象は現実に正しいということを証明する必要があると考えている。
かくして、超越主義は心理学の特殊な病だが、ドグマ主義者や論理学者も超越主義者になり得る。現代の超越主義は第一にドグマ主義であったが、すぐさま心理学主義的な形が生じた。
心理学的超越主義は次のような考え方をする。――経験も思索も対象の働きと精神の働きの結果である。それゆえ、信には二つの要素があって、心的な要素と現実の要素である。そして、心的要素が心理への妥当性をもっていると言えない限り我々はなにも知ることはできない。こうした要求を外からの研究によって答える可能な方法はない。結果的に我々は法的な問題を解決するために意識の行動を研究しなければならない。もしこうした方法で解決できないなら、解決不能であり、認識に達することはない。これがカントの考えである。
ドグマ主義的超越論者は次のように考える。――あらゆる認識は、第一前提が哲学的であるような三段論法の鎖で成り立っている。我々の知識はその前提の根拠を示せない限りは不十分である。それが事実であり、どのようなとき事物はそのように振る舞うかを示さねばならない。これが(幾分拡大解釈しているが)ヒュームの考えである。
論理的超越主義は次のように考える。――あらゆる命題は概念の複合物である。主語と述語が矛盾しているような命題が真であり得ないように、命題を構成する概念が例外なく矛盾を含んでいるなら、一般的な妥当性をもつことはあり得ない。そして、我々があらゆる命題をごく普通の論理によって検証するように、抽象をそれが整合しているかどうか批判的な吟味によって検証しなければならない。これはロックの体系からヒュームが生まれたように、ハミルトンの体系から生まれた考え方である。
ドグマ主義的超越主義は哲学を心理学と見なし、論理学的超越主義は論理を心理学と見なす。
- 2.超越主義への反駁
I.心理学的反論
形而上学は意識の科学である。
1.心理学的超越主義は、意識の研究が意識の権威についての確かな保証を生まないなら形而上学は無価値だという。しかし、意識の権威は意識のなかでのみ妥当性をもたねばならず、それ以外では、科学も、心理学的超越主義でさえも妥当ではない。あらゆる科学はこうしたことを想定しており、妥当性はそれに依存している。
2.ドグマ主義的超越主義は、形而上学では、根拠なしに前提を想定することはできないという。しかし、前提が不当な仮定であるとき、我々自身の意識を修正するというなら、そうした前提を仮定する超越論もまたそうなのである。
3.論理的超越主義は、推論の基本的な原則に自己矛盾がないと示されない限り、形而上学は確実性をもって進むことはできないと言う。矛盾は意識に取り入れることのできないものであるから、もしその手順が通常のものなら原理そのものは矛盾し得ない。
II.哲学的反論
形而上学はあらゆる科学の第一前提から成り立っている。
1.心理学的超越主義は、形而上学は我々の印象の証言である前提に依存しており、そうした証言を受け入れる理性を要求していると言う。しかし、論理的助けによっては最終的な第一前提を与えられることはあり得ない。それ故、それを要求することはあらゆる科学を擲つことである。
2.ドグマ主義的超越主義は、形而上学の前提を受け入れるに足る根拠があるに違いないと言う。しかし、それは恣意的な主張であり、もし真であるなら(この根拠から引きだされるのは小原理でしかないだろうから)真理の諸原理となる根拠が欠けていることによってあらゆる確実性は破壊されるだろう。
3.論理的超越主義は、形而上学が確かな抽象の本性によって成り立ち、それらの抽象が自己矛盾的ではないことを示さねばならないことを主張する。しかし、もし抽象が自己矛盾的であり得るなら、あらゆる哲学とあらゆる科学を破壊するような自己矛盾なしに哲学に入ることがありえないとなるかもしれない。
III.論理的反論
形而上学は概念の分析である。
1.心理学的超越主義は、形而上学は抽象の本性を決定するような意識の権威を示さねばならないと主張する。しかし、概念は抽象によって決定され、その限りにおいて同じ性質をもっている。
2.ドグマ主義的超越主義は、形而上学はその前提を証明しなければならないと主張する。しかし、形而上学は前提をもたない。それは純粋な分析である。分析そのものが前提なら、それはすべての推論に含まれるものとなる。
3.論理的超越主義は、分析は、自己矛盾的であるかもしれないので、抽象には適用されないと主張する。しかし、「自己矛盾的である」というのは、理解されず、それ故必然的に偽である述語にしか当てはまらない。偽は対象に属しておらず判断に属しているので、抽象そのものは自己矛盾たり得ない。それ故、偽であるのは我々の概念でなければならない。しかし、概念は、Aでないものは非Aであること、理性の正しい使用においては矛盾ではあり得ない。
- 3.信仰について
A.その必要
私は次のことを示そう。
α.超越主義は信仰に回帰することで終わる。
β.彼らが自分で作り上げる利点こそが、彼らの探求のうちで価値あるすべてものの源である。
γ.彼ら自身の信仰は必然的に盲目であり、それにまつわる推論は信仰の真実を明示する余地を残していない。
I.カントの作品
推論はあらゆる認識に含まれている。
証明。関係についての認識は、我々の事物との関係の認知である。
対象についてのあらゆる認識は関係的であり、我々は対象を我々との関係においてのみ知る。
あらゆる認識は対象を持たねばならない(命題の主語)。我々とものとの関係を意識する能力は、知覚あるいは感覚として知られている。
∴あらゆる認識は感覚的要素を含んでいる。
単なる感覚情報は多方に広がる混沌であり、あらゆる認識は一つの思考へとまとめられねばならない。
∴あらゆる認識はデータの運用を含んでいる。
認識においてデータを運用することは推論に行き着く。∴等々
この証明はカントから抜粋した。これは「私は考える」という認識にまでは広がらない。
様々に結びついた感覚と私は考えるということ以上確かなものは存在しない。
証明。いま見たように、あらゆる知識は感覚的な小前提からの推論である。形而上学においては、あらゆる推論は大前提をもっている。あらゆる知識は、私は考えるを除けば推論によって得られる。推論的なものにのみ依存している認識は決して確実ではない。∴等々。
これがカントの論である。続いて彼は、概念のすべてをそれが私は考えるや感覚についての特殊な表現に過ぎないかどうかを区別することでその客観的な妥当性を検証していく。彼が客観的に厳正だとしたのは
外的感覚の形式――空間
内的感覚の形式――時間
悟性に関する諸概念
I II
量に関するもの 質に関するもの
統一 実在
多数性 否定
全体性 限界