ブラッドリー『仮象と実在』 241

[真理と実在の関係。]

 

 私が述べようとしている教義は至って簡単なものである。真理は経験の一側面であり、それゆえそれが含むことができないものによって不完全になり制限される。それが絶対的なものである限り、しかしながら、それが真にも実在にもなり得るような一般的な型と性格とを与えるものである。そして、この一般的な性格における宇宙は完全に知られている。そのすべての詳細については知られていないし、決して知られ得ないだろう。知識が経験や実在と同一という意味では、全体として知られないし、知り得もしないだろう。というのも、知識と真理は――もしそれらが同一性を有すると想定したなら――ともに吸収され、変容するだろうからである。しかし、他方において、我々が絶対と呼ぶことができる真理のなかに含まれそれを内容としないような真理や知識としては宇宙は存在しないし、存在し得ない。というのも、もう一度繰り返せば、そうした可能性は自己破壊的だからである。おそらく不可能であることによって、それが可能となり得るのなら、少なくとも、その観念を持ち得ないということができよう。というのも、そうした観念が持たれていたとしても、対立物かナンセンスのなかに消え去ってしまうからである。絶対的知識は、それによって単なる一般的知識以上のものを期待するときにのみ、間違いとなる。それは抽象であり(1)、従属する細部を供給することはできない。それは一面的で、全体の具体的な全側面を与えることはできない。しかし、他方において、それがある限り、なにものもその外側に出ることはできない。それは完全にすべてを含むものであり、それに対立するものをもあらかじめ含んでいる。というのも、知的にならないものはなにものもそれに対立し得ず、真理の王国の僕となるからである。かくして、たとえそれを超えでたとしても、その外部で前進することはできない。それをより取り込んだとしても、同じものばかりを取り込んだとして責められることになる。真理としての宇宙は、別の言葉で言えば、一つの性格を保持しており、我々がもつその性格は間違えようのない知識である。

 

 

*1

 

 そして我々が物事を別の側面から見るなら、実在と真理のあいだに対立は存在しない。完全である実在はその部分的な側面を取り入れ、吸収せねばならない。そして、真理そのものは、宇宙のすべての側面を取り入れ、含まない限りは完全なものではないだろう。かくして、それ自体を越え、主語と述語の差異を廃棄し、固有の性質をもつだけになる。しかし、おそらくはこの結論は十分に守られていると思う(第十五章、二十四章、二十六章)。繰り返すと――その一般的な性格において、実在は、知識と真理、形而上学において区別され持ちだされる絶対的な真理において存在している。しかし、この実在の一般的な性格は実在そのものではなく、また、真理と知識の一般的な性格以上のものでもない。なんらかの真理となんらかの知識が存在する限り、この性格は絶対である。真理は条件的であるが、知的に超越することはできない。その諸条件を埋めることは、単に知的であることを越えた全体へと入ることになるだろう。

 

*1:

(1)あらゆる有限な真理は抽象的だという意味での抽象ではない。それは多かれ少なかれ、他の真理を外部に、また対立するものとして残しているので、知的に不確かである。かくして、それは常に真理の世界を形成する要素のなかの一片である。変容されると、知的に付け加えることができる。他方において、絶対的真理はいかなる真理を付け加えることによっても変わることはあり得ない。その詳細の一部としてまとめられないような真理はあり得ない。端的に、それをあらかじめ想定しない限り、他の真理は真理として残らないことになる。