C・S・パース「科学の論理について」 1

講義 I

              MS 94:1865年 2-3月

 

 私はあなた方の注意を古代の三学――些末なtrivialの語源であり、長い偏見にさらされてきた研究分野であるが――のうちのひとつに向けることをお願いするが、いま現在それをつまらないものであるという非難から守る必要はないものと信じる。現代科学はスコラ主義的な用語を軽蔑しているものの、それは正確な表現という利点を投げ捨てることであり、そうした用語が伝えてきた観念を使い続けるか、学び直すことを余儀なくされているのはいまでは明らかだ。しかしながら、論理学そのものは深遠な精神をもつ者には決して軽蔑されたことはなかった。ベーコンが抗議したのは、論理学のある特殊な部分で、科学そのものではなかった(アフォリスムXIを参照)。それゆえ、彼はその部分を自分自身のものに代え、――私がこれから示そうとする厳密で論理的なものにしようとしたのである。同様に、ラムスの改革、カントの改革、科学の改革者はすべて論理学の改革者であった。ラムス主義者はスコラ哲学をあざ笑い、現代の自然理論家は両者をあざ笑い、ある種の人々は自然理論家をあざ笑い始めている。もう一つの改革が来始めているように思われる。それはいまだ固まっていない。幾つかの論理的問題が科学的人間によってすでに論議されている。自然主義者は二つに分類され、ライエルによれば、一方は他の何よりも論理的問題に関わる。ある著名な数学者は、論理学のもとに蓋然性の理論の最も重要な部分の改革を提案している。そして、物理学者は不可入性とその帰結に関する仮定の論理的性格について、それが堅固であると感じるべきではなく、それらは既に高い地位にある人々によって攻撃されている。それゆえ、いまある数多くの思慮深い科学者のなかで科学的理論の論理的性格を探求することが不必要、あるいは重要でない問いかけだと考える者はないと私は信じる。

 講義は二つの問題を順に取り上げる。

第一に、科学的推論の確実性の程度と性格について。

第二に、科学の基本的原理の確実性の程度と性格について。