ブラッドリー『仮象と実在』 242

[我々の結論は極端を調停し、全体的な自然だけをとる。]

 

 我々が到達した結論は、単なる妥協ではなく、極端なものを調停することだと私は信じる。それがリアリズムと呼ばれるのか観念論と呼ばれるのか私にはわからないが、探求に際して気にしたことはない。それは観念と思考を最初に置くものでもなければ、あるもの以外のなにかがより実在だと主張することを許すものでもない。真理は一つの側面における全世界であり、その側面は哲学においては最上のものであり、哲学においてさえ、その不完全さが意識されている。また、我々の結論が間違いがないことを主張している限り、それは良質の常識と衝突することもないと思われる。形而上学がそれ自体を常識と認めることは、実際には、問題にもならないことである。というのも、その過程においても、結論においても、一般的に理解可能なものを予期し、希望することさえできないからである。しかし、無思慮なものを除けば、形而上学的結果を、もしそれが常識によって理解されるなら、すぐに排除してしまうようなものとして擁護することは軽くすませられることではない。私が意味しているのは、神性の人格であるとか、個人の死後における継続といった副次的な点ではなく――世界において共通の同意を得ていないような点――哲学は一つの特殊な見方を取らねばならないということにある。体系を形成する上で、我々の本性の諸要素を配列することが理解されたときには、一面的であることが心を打ち、それ自体ためらいと疑いを引き起こすに十分である。少なくともこの点に関しては、我々の主要な結論は満足のいくものだと願っている。我々が主張する絶対的知識は輪郭にとどまっている。一方では、我々の本性に関する主要な関心を守るには十分であり、他方において、感じざるを得ないすべてのことが人間的なものではないと見せかけることは控えている。我々はすべての実在はある種の性格を保たねばならないと主張する。その全体の内容は経験でなければならず、一つの体系に集まらねばならず、その統一そのものが経験でなければならない。それはあらゆる可能なあらわれの断片を含み、調和させねばならない。いかなる意味においても、我々が所有する以上のもの、またそれを越えたものがありうるなら,それはまったく同じ種類のもの以上のものであることは避けられないはずである。我々はこの結論に固執し、それが続いている限り、絶対的知識に達すると主張する。しかし、他方において、この結論は、すでに指摘したように、それほど遠くにまで及ぶものではない。我々が知っていることが、結局のところ、我々の無知の世界との比率でいえば何ものでもないことを認めるのは自由に任されている。我々は経験の他の様式がありうるか、あるいは、我々のものと比較してどれだけ多くのものがありうるのか知らない。ぼんやりした輪郭を除いては、統一がなんであるか、あるいはなぜそれが複数性の特殊な諸形式としてあらわれるのか知らない。そうした知識が不可能であり、なぜそうであるかの理由を見いだしたことさえ理解できる。というのも、真理はそれ自体である限りにおいての見知りうると言えるからである。そして、我々の性質のあらゆる側面の融合は、いずれの場合にせよ、それらがもとあった状態にとどめることはないであろう。実在に適したものとなるとき、真理はなにか他のものになることで――真理ではないなにか、我々には達することのできないなにか――補完されることになるだろう。かくして、我々には疑いと驚異の修練に十分な空間が残されている。あらゆる知識はある意味では虚栄であり、心のなかでは科学は実在の宇宙の豊かさに比較すれば、貧弱なものだと感じる健全な懐疑論も我々は認めている。我々は日常の世界越えて広がる喜び、なかば知られ、なかば知り得ない道をたどっていく喜びに満ちた自然な驚異を正当化する。簡単に言って、我々の結論はすべてが我々を越えているという抗しがたい印象を説明し、肯定することにある。