C・S・パース「科学の論理について」 2

 第一の問題は次の順で考えられる。

第一に、論理の概念。

第二に、アリストテレスから発達した帰納の理論、これは私がより好むものである。

第三に、現代の理論家、ブール、アペルト、ハーシェル、グラトリー、ウェーウェル、ミルについての研究。

第四に、ベーコンの理論。

 第二の問題は次の順で考えられる。

第一に、この問題についてのカントの理論を十分な形で提示する。

第二に、この理論を修正する現代の研究結果についての考察。

 

 科学の論理をつくろうとするあらゆる試みにある大きな誤りの源の一つは、論理の本性と定義についてまったく誤解していることにある。純然たる正式な論理学者は皆このことに同意している。それでは論理とは何であろうか。もちろん、二千年以上もの間有能な者たちによって探求されてきた問題についての定義は、非常に多様である。しかしながら、それらは二つの種類に分けられる。論理に心理学的、あるいは人間的な性格を与えるものと与えないものである。

 

 非心理学的観点には、私の興味を引く幾つかの観点が存在する。第一に、かなり疑わしいものであるが、論理は証明の科学だというアリストテレスに帰せられる定義がある。『ブリタニカ百科事典』のスポルディングは、これは「推論の理論」と同じものだと主張している。しかし、論理と三段論法とを同一視する視野の狭さを別としても、これは単なる語の定義で、推論や証明の性質を説明していない。聖アウグスティヌスは真理の学だと言った。ルネサンスの幾人かの作家(ピーター・モリノー、ボシウス)、現代でも少なくともレイマルス(1790)はこの定義を擁護している。この見方には大きな長所があるが、あまりに広範囲にわたりすぎている。というのは、論理は対象や観念をいかに現前させるかではなく、いかに表象するかを考えるものだからである。いわば、視覚霊感はともに論理の範囲を超えている。もう一つの好奇心をそそる定義はホッブスのものである。「論理をたどるとは計算することである。」非常に注目すべき深遠な概念だ。

 

 心理学的な定義については、もっとも広まっているのはラムスに採用されたキケロのものである。「Dialectica est ars se trader bene disserendi.」ヒンズーの定義はこれに同意している。論理を議論の術と同一視するこの見方は、これまでなされたなかで最も狭く内容の乏しい定義である。しかし,メランシュトンの定義「Ars rt via docendi」もよりよいとは言えない。かつてよりよい引き立てを得ていた定義は「ars dirigendi mentem in cognition rerum.」だった。これはより高い立場に立っているが、不可侵の法ではなく、箴言の収集を行なっている点で根本て的に間違っている。カント以後、大多数の論理学者は定義を次のようなものに、悟性や理性の必然的な法則についての科学、――あるいは同じことであるが――思考一般の純然たる形式についての科学、としている。二つの定義を較べてみると、前者はより心理学的で、後者はほとんどそうではない。前者は人が二つの能力を持ち、その容量がある。後者は形式をもった対象が考えられている。確かにこれはこれまでのなかで最上の定義である。後続する論理学者たちによって多かれ少なかれ変更を加えられたが、論理を知る者が本質的な変更を加えようとすることはなかった。人間の認知についての規範的法則についての科学ということもできよう。概念の諸関係の科学という者もあるかもしれない。形式的思考の法則の科学だという者も。その見方がカントやそれ以外の者たちとも異なるような突飛な人たちもいる。かくしてミル氏は、「論理学とは、証明の評価に役立つ悟性の操作に関する科学である」という。デュバル-ジューベは、それは知性、その法則、その働きを統制し導くような規則などの諸事実についての科学だという。クラウスは、思考にある魂の活動の法則を句を扱うという。ド・モルガンは、「推論における精神の行為を考察する探求の一部」と言う。