一言一話 147

 

古代人にとっての夢

 

フロイトユング以後の現代人は夢を、意識の底に沈んだ欲望や衝動、あるいは集団無意識のあらわれと考える。この考えが学問的に妥当であるかどうかは難しい問題で、私にはよくわからない点があるが、とにかくそういう方向で夢を考える。ところが昔の人たちは、夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。蜻蛉日記の作者は石山寺に詣でて或る夢を見たとき、「仏のみせ給ふにこそはあらめと思ふに・・・・・・」と記しているが、昔の人にとっては、夢はこうして神や仏という他者が人間に見させるものであった。夢が神的なものとして信じられるのはこのためで、だからそれは「夢の告げ」であり「夢のさとし」でありえた。「夢の教」という言葉も、すでに記紀に何度か用いられている。

神のお告げの方が精神衛生上よい気がするが、問題は神のお告げに足るような夢を、信仰生活にほど遠いためか、そもそも見ることができないことにある。