ブラッドリー『仮象と実在』 244

[あらゆるあらわれには実在が存在するが、異なった程度でだ、というのが哲学の最後の言葉である。]

 

 最終的に、実在は計り知れないものであることを見いだすにはほとんど手間がかかることはない。実在ではないどんなあらわれもある意味で誤りがあることを見て取るのはたやすい。こうした真理は、それ自体として、どんなまたあらゆる人間の手の届くところにある。さらに、おそらくは、実在はそれ自体を維持しながら、現象に落ちていくことなく離れたところにあると結論するのも簡単なことである。あるいは同じ間違いの別の側面を取り上げて安っぽくなることもある。実在は多分、そのあらわれすべてのなかに、似たものとして等しく存在するという意味で、内在しているとも見られる。一方ではすべては価値がなく、他方では神聖であり、なにものもより卑しくもより崇高にもなり得ない。この間違いの両側面のどちらにも反対し、空虚な超越にも薄っぺらな汎神論にも対立し、我々は一つの論陣を張っていたといえる。実在の形容としてのあらゆるあらわれの確かな関係、そして、異なった程度、多様な価値をもつあらわれのなかでの実在の現前――この二重の真理が我々が哲学の中心にあると見いだしたものである。なぜなら、絶対は切り離された抽象ではなく確実な性格を持っているからであり、絶対そのものが、あらわれ自体は真に異なった価値をもちうるものだが、あらゆるあらわれのなかに確かに現前しているからである。この基礎を離れては、我々は最終的に、価値、真理、実在の堅固な判断基準なしに取り残されてしまう。この結論――ある面で基準として必須であり、絶対についての確かな知識なしには達することが不可能なもの――で私はあえて未知なるものの知的な崇拝者として名を刻もうとしているのだろう。

 

 実在自体はあらわれを離れては何ものでもない。(1)最終的に、現象としてあらわれることができるか、あるいはその間に関係を保ちうる実在――あるいはそれ以外のなにか――について語ることはナンセンスになる。そうした実在は(すでに見たように)それ自体あらわれでなければ無でしかない。というのも、あらわれを除けば実在を性質づける方法は存在せず、実在の外部ではあらわれが生存できる空間など残っていないからである。実在はその現象にあらわれ、その啓示でもある。そうでなければ、なにものでもあり得ないだろう。実在は知識に入り、我々がなにかについて知ることが多くなればなるほど、ある意味で我々のなかに存在する実在は多くなる。実在は悪いとよい、醜さと美、真と偽、実在と非実在の判断基準である。端的に、それらのあいだを決定し、より高次なものと低次なものの一般的な意味を与える。その判断基準のゆえに、あらわれは価値において異なる。それなしには、最低のものと最高のものは、我々が知る限り、宇宙のなかで同一のものとなる。そして、実在は一つの経験であり、自ずから広がり、単なる関係よりも高次なものとなる。その性格はたとえとして持ちだされる最極端の機械的なものの対立物であり、最終的には精神を完璧に実現する唯一のものである。我々がこの著作を終わるにあたり、実在は精神的なものであると主張することは公正であろう。ヘーゲルの名言は周知のものであり、裏付けるような説明の必要もない。しかし、私は非常に異なっているというわけではないが、確かにヘーゲルの本質的な主張よりは多くを含む言葉で終わりたいと思う。精神の外部ではいかなる実在も存在しないし、し得ない、また、何かが精神的であればあるほど、より真の実在である。

 

(1)あらわれの意味については特に、第二十六章を参照のこと。