ブラッドリー『論理学』 1

第一巻 判断

 

第一章 判断の一般的性質

 

[判断とはなにか。観念を含み、観念は記号である。1-3]

 

  • 1.論理学を研究し始める前に、どこから始めるべきか知ることは不可能である。研究しおえた後にも、不確実性は残る。一般的な順序などないのであるから、判断から始めることに言い訳することもないだろう。中途から始めたという非難を受けるにしても、主題の中心に触れることくらいは望めよう。(1)

 

*1

 

 この章では、判断一般の問題を扱おう。(I)その語が使われるときの意味についていくつかの考察をする。(II)第二に、考え得る誤った見方を批判する。(III)最後に、その働きの発達についていくつかのことを述べる。

 

 

 I.この種の本においては、配列は任意のものにならざるを得ない。我々が同時に主張する一般的学説は、その証明を後の章に譲る。もしそれが問題となる主要な現象をすべてにわたって覆うものであれば、他の観点と衝突しあうとしても、真の観点と思われよう。しかし、こうした理由から、とりあえず暫定的に提示するしかない。

 

 判断は心理学と形而上学の双方において深刻な諸問題を提起する。他の心的現象との関係、魂-生の初歩的な段階からの複雑な発達、一方に我々の本性の知的な側面にある意志との密接な関係が、他方に主体と対象との差異、心的活動の存在をめぐる問題などが我々の進む道を示しているかもしれない。しかし、できるだけこうした問題を避けたところに我々の対象はあるだろう。我々がまず問いたくないのは、判断は他の心的状態とどんな関係にあるか、究極的な実在においてそれについてなにが言われねばならないか、である。我々はそれを、できる限り所与の心的働きとして捉えることにしたい。それがもたらす一般的な性格を発見し、更には我々がそれを使用する際のより特殊な意味に注意を向けることにしたい。

  • 2.まず後の仕事から取りかかろう。判断は、厳密な意味においては、真と偽の知識のないところには存在しない。真と偽は我々の観念と現実との関係に基づいているので、観念なしに判断なるものはあり得ない。たぶん、こうしたことの多くは自明だろう。しかし、これから指摘しようとする点はそれほど自明ではない。我々は、観念を使用する前に判断できないだけでなく、厳密に言えば、観念を観念〈として〉用いるまで判断できない(2)。我々はそれらが実在ではなく、〈単なる〉観念であり、自身以外の存在の記号であることに気づいていなければならない。観念はシンボルとなって始めて観念となり、シンボルを使用する前に我々は判断できない。

 

*2

 

  • 3.我々はよくこう言う、「これは実在ではない、単なる観念だ」と。そして、頭のなかにあり、私の精神のある状態である観念は、外部の対象と同じく確固とした事実だと答えもする。この答えは先の言葉とほとんど同じほどなじみ深いものであり、私の不満はつまるところそれがあまりにもおなじみになったことにある。いずれにせよ、我々は、英国で、心理学的姿勢のなかであまりに長く生活してきた。(3)我々は、感覚や感情のように、観念が現象であることを当然のことと見なして軽視している。そして、これらの現象を心的事実と考えることで、(どれだけ成功するかは問わないにしても)観念と感覚とを区別しようとする。しかし、こうした意図において、我々は論理が観念を用いているそのありようをほとんど忘れてしまう。判断においては、いかなる事実もそれがまさしく〈意味する〉〈もの〉ではないし、そのありのままを意味することもできない、ということを見ようとしない。真や偽があるとき、我々が用いているのは意味作用であり存在ではないことを学ばない。我々は頭のなかにある事実を擁護するのではなく、その事実が表わすなにか別のものを擁護する。ある観念が心的実在として〈扱われる〉なら、それ自体現実の現象と捉えられるなら、それは真も偽もあらわしはしないだろう。判断において用いるとき、それは自身以外のものに赴かねばならない。もしそれが、自らの実在を強調するにもかかわらず、なんらかの存在〈について〉観念ではないなら、その中身は「単なる観念」でしかない。我々が意味を向ける実在との関係においてはなにものでもないなにかである。

 

*3

*1:

(1)論理学における順序については巻末エッセイI参照。

 

*2:(2)「我々は観念を観念〈として〉用いるまで判断できない」これは修正を必要とする。『仮象』の索引、『エッセイ』の32-3ページと索引を見よ。また、本書の索引、観念の項参照。

*3:(3)「英国で」本書は1883年に出版された。