ブラッドリー『論理学』 2

[記号とはなにか。4-6]

 

  • 4.論理学的目的に関しては、観念はシンボルであり、シンボル以外のなにものでもない。(4)これ以上進む前に、新味のない恐れはあるが、シンボルがなにかについて述べてみなければならない。

 

*1

 

 あらゆるものにおいて、我々は二つの側面を区別できる。(i)存在と(ii)内容である。別の言葉で言えば、我々は<それがある>ということとそれが<なにであるか>を知覚する。しかし、シンボルには、第三の側面、その意味作用、それが<意味するところのもの>がある。(5)それに含まれる形而上学的問題には関わらないので、最初の二つの側面を考える必要はない。ある事実が存在するとき、それがなにものかに違いないことに我々は同意する。それが他の諸事実と異なった、区別しうる性格をもっていないなら、それは実在ではない。そして、それがある通りにつくりあげるものを内容と呼ぶ。例としてごく普通のどんな知覚でも取り上げることができる。それが含む複雑な性質と関係がその内容、あるいはそれであるものをつくりあげる。それを認めていることは、また、加えて、<それがある>ということも認めている。あらゆる種類の事実は存在と内容の二つの側面を有していなければならないということで、それ以上のことをここで言うつもりはない。

 

*2

 

 しかし、第三の側面を有するような事実が存在する。それらは意味を有している。記号によって、意味のあるどんな種類の事実をも我々は理解する。意味は本来的な内容の部分であるのか、(6)ある拡張によって発見されつけ加えられたものかもしれない。それに違いはない。なにか別のものを意味できるものをとれば、それは記号である。本来の存在と内容の他に第三の側面をもっている。かくして、あらゆる花は存在し、性質をもっているが、すべてが意味をもっているわけではない。あるものはなにも意味せず、他のものはその種類の一般的な代表であり、我々に希望や愛を思い起こさせるようなものもある。しかし、花そのものが<意味する>もので<ある>ことは決してできない。

 

*3

 

 シンボルはなにかを意味する事実で、そのことで、失うことと得ること、おとしめられることと高められること双方があると言える。シンボルとして使用されることで、個別的で、自律的な存在であることをやめる。<この>薔薇か、私を忘れないでという花言葉のどちらかが選ばれるというのは主要な問題点ではない。その意味があるために我々はそれを与えたり、とったりする。花が滅び去った遙かに後でその意味の真偽が証明されるかもしれない。言葉は話されたとたんに消え、特殊な音の単なる振動は我々の精神になにも残さない。その存在は会話と意味作用のなかに失われる。紙とインクは唯一無比のもので、はっきりした諸性質をもっている。それは世界にあるどんなものとも完全に一致することはない。しかし、読書において、我々は紙やインクを理解するのではなく、それらがあらわしているものを理解する。そして、意味に関する限り、個別的な存在は関係がない。シンボルとして受けとられる事実は、単なる事実であることをやめる。それはもはやそれ自身を目的として存在するとは言えず、その個別性は普遍的な意味のなかに失われる。もはや自律的なものではなく、他に従属的なものとなる。しかし、この変化はすべてを失うことではない。その性質がより広い意味に溶け込むことによって、自身を越え他のものを意味するようになる。これまでは入ることができなかった世界に入る許可と影響力を得るのである。紙とインクが人間を裏切り、吐息が世界を揺るがすこともありうる。

 

 簡単に要約しよう。記号は意味をもつ事実であり、意味は精神によって切り取られ、固定された内容(本源的なものか獲得されたもの)から成り立っていて、記号の存在とは別のものとして考えられる。(*)

 

(*)「そして他の実在を指す」とつけ加えるのは正確ではないだろう。というのも、判断することなく考えているとき、否定するときにはこの記述は適用されないからである。また、観念をもつことと、その可能性を判断することとは同じことではない。キメラのことを考えるのはそれを現にあるものとして考えることだが、その可能性を判断することではない。あらゆる意味が形容詞的でなければならならないことを見いだして始めて、我々のもつあらゆる観念はそれ以外の実在を示唆することが明らかになる。(7)

 

*4

 

  • 5.ここで脇道にそれることを許してもらわなければならない、必要がなければとばしてもらってかまわない。本書を通じて、重要な相違があるにもかかわらず、私は「シンボル」という語と「記号」という語を区別して使おうとはしなかった。確かにシンボルは常に記号だが、その語は非常に特殊な性格をもった記号に用いられる。シンボルとは対照的に、記号は恣意的なものである。もちろん、それは意味を欠いたものではあり得ないし、そうであればなにをあらわすこともできないだろう。しかし、それは内的に関わりのないもの、恣意的な偶然によって結びついたものをあらわすことができる。しかし、シンボルを狭い意味にとると、記号が自然な意味をもち、その内容がその対象と直接に結びついているときでさえ、自然記号がシンボルである必要はない。我々はシンボルという語を<二次的な>記号として限定することができる。例えば、ライオンは勇気のシンボルで、狐はずるがしこさのシンボルだが、狐の観念がずるがしこさを<直接に>あらわしていると言うことは不可能である。我々がしているのは、まず狐と呼ばれる動物を取り上げ、それを狐の一つの性質の記号として使っているのである。狐のイメージや表象が実物のある部分をもって別の狐を指すことになるように、意味もまたばらばらにされる。内容の一部分が精神によって固定され、別のもの、つまり、どこにでも見いだされる一般的な性質を指し示すことになる。知覚物自身、観念的に、つまり、その内容の一部分が把握されることで始めて利用できるのであるから、イメージや感覚知覚が最初にあるかどうかは関わりない。無意識のシンボリズムと反省的なシンボリズムの相違についてもまた、主要な原理には関わりがない。

 考えうる反論を未然に防ぐために以上のことを言っておくほうがいいと思った。しかし、私は記号とシンボルとをまったく区別なく使おうとしているので、この議論は私の論証にはほとんど関わりはない。

  • 6.我々は、結局、観念なしに記号は存在しないと言うことができるかもしれないが、私がここで主張したいと思っているのは、少なくとも論理学に関する限り、あらゆる観念は記号だということである。観念のそれぞれが心的な事実として存在し、特殊な性質と関係をもっていることを我々は知っている。私の心のなかの出来事として特殊性がある。それは確かな個物で唯一無比であって、他のあらゆるものと異なっているばかりでなく、次の瞬間の自身とも異なっている。この性格は、存在と内容という二つの側面に限ったときにも有していなければならない。しかし、まさしくこの性格を有する限りにおいて、そのゆえに、論理学には観念が全くないことになる。観念は意味のために存在し始めることではじめて観念になる。そして、意味とは、繰り返しになるが、内容の一部分で、残りの内容や存在を無視して用いられる。私は馬の「観念」をもち、それは私の瞬間的な状態を形づくる感覚、情動、感情の集積と関係をもちながら存在する心的な事実である。把握しにくいかもしれないが独特の特徴があり、現前していると仮定せざるを得ない。疑いなく、それは他のなにものとも、それ自身とも同じではない唯一無比のものであり、過ぎゆく瞬間の世界において唯一のものである。しかし、論理学と真と偽の問題に関する限り、事態はまったく異なる。「観念」は、すべて意味に従属しているがゆえに普遍的なものとなる。馬に認められる属性間の関わりは唯一ある馬-イメージの内容の一部であり、この心的出来事の断片的な部分のみが論理学において我々が知り、関心を払うものである。これを使用し、あとは残滓として、我々には関わりがなく重要でないものとして扱う。「観念」は、もしそれが心的な状態だとしても、論理学においてはシンボルである。存在や非本質的な内容はすべて切り捨てられるので、観念は意味<である>と言ったほうがいい。心的なイメージという意味における観念は、意味という意味における観念の記号である。(8)

 

*5

*1:(4)「シンボル」。これは間違っているか、少なくとも不正確である。「記号」や「シンボル」は個別的な存在の認知を含み、この認知は「観念」に含まれていない。『エッセイ』29頁、索引の観念を見よ。

*2:

(5)「あれ」、「なに」、「意味する」、「あらわす」(第六章§2参照)これらの区別には、あらわになってはいないが判断が含まれている。こうした区別をするところには超越と観念がある--常に明らかな観念とは言えないが。(注2を見よ。)こうした区別はそのどれをとっても、もしそれを完成させることができるなら、残りすべてを含み、それらに通じることになろう。

 

*3:

(6)「本来の内容」。この区別(§4の終りの語の「(本源的あるいは獲得された)内容」という箇所を参照)は§5で指摘した差異を示している。しかしながら、論点はちぐはぐで、§5は削除するべきだった。

 

*4:

(7)この脚注はまったく間違っており、「指示対象」のない観念は存在しない。『エッセイ』第三章と索引を見よ。本文の「切り取られ等々」というのもまた不正確である。それが使用される前、あるいはそれを離れては観念は存在せず、観念とは最初は無意識なものである。注2を見よ。

 

*5:(8)ここで再び銘記しておかなければならないのは、(i)観念はそれが用いられる存在とは別に存在する、あるいは(ii)それが用いられる際、心的事物であると気づいていなければならない、といったことを我々が言っているのではないということである。更に、(iii)私は、至る所で、あらゆる観念は「イメージ」と呼ばれるものをもっているかのような誤った言い方をしている。心的存在が常に観察によってどこまで、どういった意味で照合されるのかは、多分私が十分に注意を払わなかった難点である。だが、あらゆる観念は心的出来事の側面をもち、特殊な存在であることを私は仮定せざるを得ない。次の脚注での「感覚的」という語は、「心的」とするべきだった。9頁では獲得される心像の量が過大視されている。他の側面については、第二章§36,37参照。