ブラッドリー『論理学』 3

[「観念」の二つの意味。6-8]

 

§7.観念のこうした二つの用法、シンボルとシンボル化されたもの、イメージとその意味は、もちろん、我々のすべてに知られたものである。しかし、私がこの明らかな区別にこだわる理由は、我々の思考の多くの部分において、このことが一貫して無視されているからである。我々がこう尋ねられたとする、「あらゆる単純観念は特殊なものであり、同一の観念について語るのだとしても、実際の観念は各瞬間において変化しており、我々が実際に行なっているのは同一のものについて語ることではなく、多くの似かよったものについて語ることであるとき、観念を普遍的であると考えるような愚か者がいるだろうか」と。そんな明らかな反論に我々が気づいていないと考えるような者がいようか、と答えたくなる。変化の只中において同一な観念について私が語るとき、絶えることのない流れのなかにある心的出来事について語っているのではなく、精神が固定し、いかなる意味でも時間内の出来事ではないある部分について語っている。我々は意味について語っているので、シンボルの系列について語っているのではなく、いわば、金について語っているので、その移ろい変化する特徴について語っているのではない。普遍的観念への信頼は、我々の頭のなかの事実としてでさえ抽象が存在するという確信を含むものではない。心的出来事は唯一のもので特殊であるが、その意味は存在から、揺れ動く他の内容から切り離されている。それは特殊なシンボルとの関係を失っている。それは従属的なもので、他のなにかを指し示しているが、それ自体はどんな特殊なものに対しても無関心である。

 

 「観念」の曖昧さは次のように示すことができる。〈定立〉一方において、いかなる観念もそれが意味するところのものではあり得ない。〈反定立〉他方、それが意味するところものでないような観念は存在しない。定立においては、観念は心的なイメージである。反定立においては、観念は論理的な意味作用である。最初の場合は全体を指す記号だが、第二の場合はシンボル化されたものでしかない。本書において私は観念を主に〈意味〉という用法で使うつもりである。*

 

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§8.観念と事実との区別は重大だが、論理的な目的のために観念と感覚とを心理学的に区別することは大した問題ではないと言える。イメージや心理学的観念は論理学にとっては感覚的実在であるに過ぎない。感覚が捉える感覚対象に過ぎない。どちらも事実であるが、どちらにも意味はない。どちらもあらわれから切り取られたものではないし、あるつながりとして固定されたものでもない。心的出来事の流れにおける自分の場所、時間やあらわれとの関係に無関心でもない。別の場所、別の空のもと異なったときを過ごす存在に遣わされた属性ではない。その生は周囲の環境と分かちがたく絡みあっており、感覚される個々のものとともにあるので、その性格は一つの糸が断ち切られただけでも破壊されてしまう。その持続において移ろいやすく自ら崩れていくのと同じように、個物としては当てにならず、実在にしては人を迷わせ欺くものであるが、ある意味ある仕方でそれはその通りに<ある>。それらは存在をもつ。思考ではなく与えられたものである。†しかし、もし我々が観念を意味として使うなら、観念は与えられるものでもあらわれるものでもなくつかみ取られるものである。それは現にあるものとしては存在し得ない。時間や空間に場所を占める出来事でもあり得ない。それは頭のなかの事実でも頭の外の事実でもあり得ない。単に観念だけをとるなら、それは分離された従属物、切り離された寄生物、宿り主を捜す身体のない精神、具体的なものからの抽象、それ自体ではなにものでも<ない>単なる可能性である。

 

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*1:*普遍的観念には心理学的難点が存在し、それは観念が抽象的になるにしたがってますます大きなものと感じられる。特殊な心像や感覚されるものの存在とその総体が諸問題を引き起こす。しかし、そうした問題はどちらにしろ論理的な重要性はないので、ここで考える必要はない。バークリーに従い、心的事実というのは、いかに堅固に意識のなかに持ちこまれようと、常に関係のない感覚的背景を含んでいるのだと私は思う。しかし、それは重大な問題ではないと繰り返さねばならない。普遍性の実在をある瞬間に存在する心的出来事を示すことで擁護しようとするのが原則的に間違っている。というのも、もし我々が論理において用いる普遍が私の心に一事実として存在するなら、とりあえず私はそれをその事実を示すものとして〈使う〉ことはできないからである。いずれにせよ存在と外的な関係からの抽象がなされねばならず、その抽象がどの程度であるかは重要でも核心に触れる問題でもないように思える。

*2:†この言葉は第二章で修正を必要とする。(9)

*3:(9)そこで述べたことは、「定言的」ということは実際には「条件的」であることを読者に思いださせるだろう。