C・S・パース『科学の論理について』 6

 第二の種類の真理は、これまでの慣習に従った記号の外示である。たとえば、子どもの名前は、洗礼の慣習に従い、その人物を指している。記号が複数のものを指すこともあり得るが、それらが示す各対象は慣習によって固定されておらねばならないので、真の一般性をもつことはあり得ない。ある記号がある個的な概念を個的な精神の個的な行為として示し、その概念がそれに似たあらゆる概念をあらわすと認められることがあるのは確かである。しかし、この場合、一般性は概念に属するのであって、記号に属するのではない。それ故、論理学とは一般的な語だけを扱うものなので、こうした狭い意味における記号は論理学では扱わない。第三の種類の真、あるいは表象と対象との一致は、生まれつきのものであれ獲得されたものであれ、表象の本性そのもののなかにそれがあるという考えである。そうした表象をわたしはシンボルと名づける。この主張の曖昧なところを明確にするために、我々の言葉について考えてみよう。人間の言葉はすべて個的な概念の記号————狭い意味における記号である。しかし、常にこうした性格をもっているのだろうか。この点について、ロックの文章を幾つか読んでみよう。

 

四 ことばはしばしば秘かに、第一、他の人々の心の観念に関連させられる

 しかし、ことばは、人々が使うとき本来かつ直接には話し手の心にある観念だけを意味表示するが、それにもかかわらず、人々は自分たちの思惟の中でことばを他の二つの事物へ秘かに関連させる。

 第一、人々は自分たちのことばが他の人たち、すなわち、人々が思想伝達する他の人たちの心にもある観念の標印だと想定する。というのは、そうでなくて、かりにもし人々が一つの観念へ当てはめる音が聞き手によって他の観念へ当てはめられるようなものだったとしたら、人々は語ってもむだだったろうし、理解されることができなかっただろう。これは二つの言語を話すことだ。けれども、こうした点で人々は、通例、自分と自分の談論する者がその心にもつ観念が同じかどうかを検討する態度にない。人々は、ことばを自分たちの言語の普通の語義で使うと想像するとおりに使って、それでじゅうぶんだと考える。そのさい、人々は次のように想定する。すなわち、自分たちが記号とする観念はその国の知性ある者がその名前を当てはめるものと精確に同じだと、そう想定するのである。

 

五 第二に、実在の事物へ

 第二に人々は、単に自分自身の想像について語ると思われずに、実在するとおりの事物について語ると思われたい。それゆえ、人々はしばしば自分たちのことばが実在の事物をあらわすと想定する。が、これは、前節に述べたのがおそらく単純観念と様相に関係するように、実体とその名前に比較的とくに関係するので、混合様相ならびに実体の名まえを取り扱うようになるとき、ことばを当てはめるこれら二つの違った仕方についてもっとくわしく語ることになるだろう。ただ、このさい言うのを許していただきたいが、私たちがことばに私たち自身の心にある観念でないなにかの事物を表わさせるときはいつも、ことばの使用はゆがめられ、ことばの意味表示は避けがたい不明瞭と混乱におちいるのである。

 

六 ことばは使いなれると、即座に観念を喚起する

 ことばにかんして、次の点もさらに考察すべきである。第一、ことばは直接には人々の観念の記号であり、それによって、人々が自分たちの想念を伝達し、自分自身の胸の内にもつ思想・想像を相互に表現し合う道具であるから、絶えず使われると、一定の音とその表わす観念との間に強い結合ができて、名まえを聞くと一定の観念が即座に、すなわち、その観念を産む適性のある事物自身が現実に感官を感発したとするときとほとんど同じくらい即座に、喚起されるという点である。これはすべての可感的性質で、また、私たちにひんぱんによく思い浮かぶすべての実体で、明々白々にそうである。

 

七 ことばは、しばしば、意味表示なしに使われる

 第二に、ことばの本来かつ直接の意味表示は話し手の心の観念であるが、それにもかかわらず、私たちは幼少から使いなれるため、一定の文節音をたいへん完全に習い、即座に口にし、いつも記憶にとめるようになるが、しかも、いつも入念に検討したり、ことばの意味表示を完全に定着させたりするとはかぎらないので、人々は専心して注意深く考察しようとするときすら、自分たちの思惟を事物よりことばに置くことしばしば起こる、そういう点である。いや、ことばの多くはその表わす観念が知られる前に学ばれるので、そのため、ある人々は、子どもたちばかりでなく、大人たちも、ことばを学んでしまって、そうした音に慣れてしまったという理由だけで、おうむとすこしも変わりないように、いろいろなことばを話す。とはいえ、ことばが有用で意味表示のあるかぎり、そのかぎり、音と観念の間には恒常的結合があり、音が観念を表わす意味指示があって、音がそのように当てはめられなければ、音はそれだけの無意義な物音にすぎないのである。(第3巻第2章)

 

 

 私は事実に関する問題のよき権威者としてロックを挙げた。しかしながら、彼の批評は不完全で間違っている。彼の主張はいまでは過去のものとなっていると言うだけで十分である。彼は人間精神の自然な概念について述べている。彼はそれを幻影と考えている。私はそれを正しいものとして受け入れるだろう。それ故、彼の事実なるものに赴き、それについての私の解釈を皆さんには考えてほしい。彼の最初の事実は、「ことばは、人々が使うとき本来かつ直接には話し手の心にある観念だけを意味表示する」ということである。これは正しい。しかし、我々は言葉を使用されている状態で扱っているのではなく、言葉そのものを扱っている。この点について彼は二つの観察を行なっている。「第一、人々は自分たちのことばが他の人たちの心にもある観念の標印だと想定する。」この見解は、言葉に対応する観念をもつ心の個別性が重要でなく、観念は心一般に、普遍的な心に属すると見なされており、言葉はどんなに曖昧なものであっても、純粋な観念を確定するものと考えられている。「第二に、人々は自分たちのことばが実在の事物をあらわすと想定する。」つまり、概念そして事実とともに認められる言葉の理解可能な形式というのは、単に概念の形式ではなく事実の形式でもあるというのである。この合致は、端的に言うと、言葉と概念双方のからなっている。ロックのこの二つの観察は、言葉の表象的な性格は自然に二つの方法で表現され、第一に普遍的な心の観念によって確定され、第二に可能な対象の抽象的形式によって決定される。この観念と純粋は形式は同一のものである。ロックは、まさしく私が「自然なシンボル化」と表現するものについてさらに二つの見解を述べている。「絶えず使われると、一定の音とその表わす観念との間に強い結合ができて、名まえを聞くと一定の観念が即座に、すなわち、その観念を産む適性のある事物自身が現実に感官を感発したとするときとほとんど同じくらい即座に、喚起される。」この喚起の容易さは明らかに次のことによっている。つまり、我々は言葉を記号として考えるのではなく、それが意味する性質をもつものであるかのように知性が影響されているということである。私はこれを言葉の獲得性質と呼ぶが、なぜならそれは言葉がもつようになる力であり、我々の反省をまったく受けない言葉そのものは観念を我々の心にもたらすものだからである。「第二に」とロックは言う、「人々は専心して注意深く考察しようとするときすら、自分たちの思惟を事物よりことばに置くことがしばしば起こる。」単なる記号や音が議論している対象と何も共通なものをもたないと考えるとき、人が誤りに陥ることに不思議はないだろう。不思議なのは、どのようにもう一歩先に進むことができるかである。だが、あらゆる//分析的/抽象的/思考においては、人は事物より言葉の方をより多く考えるだけでなく、幾何学で言葉よりもより思考が容易なので空間に頼るような場合を除けば、私はあえて言いたいが、滅多に事物のことなど考えないのである。我々は代数でどれだけ事物を考えることがあろうか。我々が掛け算の記号を使うとき、我々は掛け算の概念を考えさえせず、その概念の法則に一致するようなシンボルの法則だけを考えているのであり、その上必要とされるのは、対象において掛け算の法則と一致することである。さて、概念についてなんら思うことなく、それに属する対象を同じく想像もせずに、どうしてシンボルだけである結果を導きだすことができるのだろうか。それは、単に、シンボルが心の前にもたらされたとき、ある種の使用の法則————反省されたものであれそうでないのであれ————が連想によって即座に心の動きを規定する、と記されるような性質をシンボルが獲得したからである。それらはシンボルとして乗り越えることのできないシンボルそのものの法則と見なされうるだろう。