C・S・パース「科学の論理について」 7

 ついでに言っておけば、シンボル的な性質がもともとあるものなら、それはより写しに近く、そうしたシンボルの例としては概念や心的なシンボル同様、ヒエログラフ、幾何学的シンボル、エンブレム、比喩などである。他方、シンボルの性質が獲得されたものなら、シンボルは通常の文字、言語、代数的シンボルのような記号により近いものとなる。ロックは、シンボルとして言葉を使用することは曖昧になる危険があり、唯一安全なのは、それらを認められた概念の記号として用いることだという。そうかもしれない。しかし、言葉を、それと対応する概念として定義する試みはそれ特有の危険に直面すると示すことができると思う。哲学の本質が定義にあることは確かである。そして、哲学することに間違いの危険があることは言い古されたことである。それは複雑な組織を単純なもので代用する。人為的な組織を単純なもので代用する。竹馬で歩いているようなものである。この代用はいかに危険なものであれ、不可欠であるというのは確かである。しかし、言葉の使用を獲得するずっとよい方法があると私は信じている。つまり、練習によって、選択された練習によって腕の使い方を学ぶような具合にである。そして、言葉の使用法を伝達する場合でさえ、用例によって伝えるより完全な方法があり得るだろうか。

 

 しかし、この問題をこれ以上続けることはせず、表象には三つの種類があることを確言しておく。写し記号シンボルである。最期だけが論理学の扱うものである。論理学の定義に近いものとしては、シンボル一般そしてそれ自体についての学だということになろう。しかし、この定義はまだ広すぎる。実際、それは意味論、あるいは象徴学とでも言える表象についての一般的な学の一支脈であり、論理学は一つの種なのである。論理学はある特殊な観点からシンボルを考える。

 

  シンボル一般とそれ自体は三つの関係をもっている。第一は純粋観念あるいはロゴスとの関係であり、これを私は、それが自らの本質との関係であることから、(私、それ、汝という代名詞についての文法用語との類比から)一人称の関係と呼ぶ。第二には、思考可能な存在としての意識、あるいは翻訳可能な何らかの言語との関係であり、それは心に訴えかける力と関係するので、二人称の関係と呼ぶ。第三はその対象との関係であり、三人称あるいはそれITとの関係と呼ぶ。あらゆるシンボルは三つの関係をとる際の条件として三つの異なった形式的法則のシステムに従っている。もしその三つの規範、三つの関係のどの条件かを侵犯するようなことがあれば、それはシンボルであることをやめ、ナンセンスを生みだす。ナンセンスはシンボルではないがシンボルとある種の類似性をもっている。それはシンボルの性格をまねするものだが、通常三つの規範のどれか一つを侵犯している。少なくとも、目に余る程度に。それゆえ、少なくとも三つの異なった種類のナンセンスが存在することになろう。それぞれのナンセンスは、無意味、不条理、屁理屈と言い分けられる。もしシンボルが純粋観念やロゴスという限定の条件を侵犯するなら、それはほぼ完全に理解可能な限定ということになろう。たとえば、I amという代わりにI isというような場合である。I isはそれ自体は無意味であり、それが具体化しようとした形式との関係の諸条件を侵犯している。それゆえ、一人称の関係の諸条件は文法の法則であることがわかる。

 

 別の例を取り上げよう。私は自分の意見が間違っていることはわかっているが、それを主張する。これは文法的であるが、難点は対象をもつものの諸条件を侵犯していることにある。まさしくそこに難点があることを見てほしい。それはこのあるいはあの対象に限定できないばかりでなく、いかなる対象であれ限定できないのである。そこにすべての難点がある。私は一つの見解あるいはシンボルによる表象のなかに矛盾を認める、と言う。それは、それがなんのシンボルにもなっていないことを意味する。もう一つの例がある。この命題は間違っている、というものだ。あらゆるシンボルは間違っているか正しいかでなければならないという排中律の法則にこの命題は当てはまらない。というのも、もし間違っているなら、それゆえに正しいことになるからである。間違っていないなら、それゆえに正しくないことになる。さて、なぜこの法則はこの命題に当てはまらないのだろうか。なぜなら、それは自ら対象をもたないことを言明しているからである。それは自ら、自らについてのみ語っており、なんであれ外的な関係をもたない。これらの例は、論理的法則は、シンボルが対象をもつことを条件として効力をもつ。しばしば真理についての学だと言われる事実が、この見方を確認する。

 

 それゆえ、私は論理学を、シンボル一般を対象に関係づけることを可能にする諸条件についての学だと定義する。

 

 同時に、象徴学一般は、普遍的文法、論理学、普遍的修辞学の三学によって成り立っており、最期のものはシンボルの理解可能性の形式的諸条件についての学を意味する。

 

 次の講義では、帰納についての一般的理論について述べよう。