ブラッドリー『論理学』 6

[誤りの反駁。11-12]

 

§11.こうした判断の記述において、我々が同時に気がつく二つの点がある。読者は、我々が<一つの>観念、あるいは観念内容をもつ判断について語り、主語と繋辞についてはなんの言及もしていないことを認めるだろう。一方、もっとも行き渡っている教義というのは、我々は常に<二つの>観念をもち、その一つが主語だというものである。どちらの見方に対しても私は意見を異にせざるを得ない。第二章でこの問題を更に扱うが、ここでいくつかのことを述べておこう。

 

 (i)あらゆる判断が二つの観念をもつというのは真実ではない。反対に、すべて一つしかもたないと言うことができる。(14)我々は諸性質と諸関係の複雑な総体である観念内容を取り上げ、それからそれを分断区別し、その結果、関係をもつ異なった観念を得る。このことはまったく反論できない。しかし、反論可能であり、我々が否定するのは我々の精神の前にある全体が単純観念だということである。それは原理的に重大な誤りを含んでいる。観念間の関係はそれ自体観念である。心的事実の心的関係ではない。それはシンボルの間に存在するのではなく、シンボル化されたもののうちにある。それは意味の一部であって、存在の一部ではない。それが存在する全体は観念的であり、一つの観念である。

 

*1

 

 単純な例を挙げてみよう。我々は狼の観念をもち、それを一つの観念と呼ぶ。我々は狼が羊を食べているところを想像し、そこに二つ、三つ、あるいはそれ以上の観念が存在すると言う。しかし、この場面は一つの全体として与えられているのではないだろうか。恐らくそうではない。というのも、全体のなかには区別が存在し、そうしたグループ分けを我々はするものだからである。しかし、この道筋に従って進み、他の観念を含むあらゆる観念の単一性を否定するなら、狼自体も一つの観念ではなくなってしまう。それは数多くの属性の総合であり、結局の所、それ以上の区別を受けないような観念を見いだすことは我々にはできないだろう。どちらかを選ばねばならない。非常に単純で、それ以上の<いかなる>区別も受けないような性質の観念を除いては単純観念など存在せず、つまりは観念などまったく存在しない、と言うか、あるいは、精神が全体として受けとる内容は、どれほど大きくどれほど小さくとも、またどれだけ単純でどれだけ複雑であっても、一つの観念であり、その多様な関係はある統一のうちに包含されている、と言うかである。*

 

*2

 

*3

 

 いかに複雑なものであっても、意味内容の間の関係は、心的存在の間ではいまだ関係ではないということに留意しないと、我々は常に間違った方向に行く。狼と羊がいる。狼は羊を食べるだろうか。狼は羊を食べる。我々はここで狼と羊の間に示唆され主張される関係をもつが、この関係は(こうした言葉を使うことができるなら)私の頭のなかの出来事を<現実に>繋ぐものではない。ここで意味されているのは、イメージの心的な連結のことではない。狼の観念が狼というイメージの全体ではなく、羊の観念が想像された羊ではないように、その総合された観念は私の想像に存在する関係ではない。私の意味がシンボル化された特殊な場面には、普遍的な観念のうちでは消え去り、考えられたり追求されたり、ましてやその存在が主張されたりはしない細部が存在する。

 

 同じことを繰り返すと、心像は記号であり、意味は全体の部分であり、その残りから、その存在から切り離されたものにすぎない。この観念内容においては、名詞、動詞、前置詞に応ずるように、性質と関係のグループがあり結合がある。しかし、こうした多様な要素は、それらを区分けする正当な権利はあるが、内容全体の外では妥当性を失ってしまうのである。あらゆる観念を含む一つの観念がある。どれだけ単純だろうが複雑だろうが、精神が一つのものとするならそれは一つの観念でしかない。しかし、もしそうなら、判断は二つの観念を繋ぐものだという古くからの迷信は捨て去るべきだろう。

 

§12.次に、この誤りの別の側面(ii)判断においては一つの観念が主語であり、判断はもう一つの観念をこれに差し向けるものだという教義に移ろう。次の章でこの考え方は完全に捨て去られるが、それを先取りするものとして、ここでは二つの点に注意しておこう。(a)「狼が羊を食べる」という発言は、私がそれを肯定しようが否定しようが、疑おうが尋ねようが、その関係は同一である。(16)それゆえ、判断の<特異性>は判断とは離れたところに存在するものに見いだされはしないだろう。<特異性>は主張された内容と単に仮定された内容との違いに見いだされるだろう。そこで、あらゆる判断において、一つの観念がその主張の主語だというのが正しいなら、この教義は本質的というには余りに間口が広すぎ、おそらくは見当違いなものとなろう。(b)(後に見るように)この教義は間違ってもいる。「BがAに続く」、「AとBが共存する」、「AはBの南にある」これらの例において教義を守ることができるのは、事実を無視することだけである。AかBを主語とし、残りを述語とするのは不自然である。「魂は存在する」、あるいは「海竜は存在する」、あるいは「ここにはなにもない」といった存在が直接に主張されたり否定されたりする場合も、この理論の難点が浮かびあがるのが見られる。

 

*4

 

 後は、あらゆる判断において、観念内容を主張する一つの主語が存在する、とだけいっておこう。しかし、もちろん、この主語はその内容に属したり、その内部にあったりすることはできない(17)、というのも、その場合、主語はそれ自身に帰した観念となってしまうだろう。我々は後に、主語とは、結局の所、観念ではなく、常に実在なのだということを見ることになろう。このことをもって、我々はこの章の前半を終り、先に進まねばならない。判断の一般的な概念からある種の誤った考え方の批判にすすむのだが、網羅的というには程遠く、ある点においてはより十分な証明を後の章の議論に譲らなければならない。

 

*5

 

*1:(14)この発言(49,56頁参照)は修正を必要とする。観念的意味が一つだということは確かである。しかし、主語というのはある特殊な主語であり、特殊なあり方で意味のうちに存在するというのもまた確かである。(ボザンケット参照)判断の主語としての現実の二つの性質は私には十分理解されていなかった。以下の13ページを見よ。また、114,447頁、索引参照。

*2:

*観念の数に関する心理学的論議についてはすぐに考慮することもできるが、あらかじめ一つの観念とはなにかを知らないうちは結論がつきかねよう。もしそれが内的な複雑性をすべて排除するものなら、後にはなにが残るだろうか。しかし、もし多数性を認めるなら、どうしてそれが一つの観念であろうか。しかしながら、他のどんな方法で多数性を扱うことができようか、単純観念は我々がそれを一つのものと見るからそうなのだ、ということになると問題は明らかに異なった形となるに違いない。(15)

 

*3:(15)『マインド』41号21頁以下を見よ。

*4:

(16)「関係は同一である」注13を見よ

 

*5:(17)「主語は内容に属すことはできない」この発言も修正を必要とする。これは単にはいかいいえで答えられる問題ではない。巻末エッセイⅡを見よ。『エッセイ』、『仮象』索引参照。