C・S・パース「科学の論理について」 9

 この例では、草食動物はもっとも広がりがあるあるいは大前提であり、牛と鹿は小前提であり、蹄の分かれたは中前提であって、アリストテレスの定義を例示する助けとなろう。そして、我々の帰納的推論は、述語としてある大前提から中前提を通じて小前提を論じることにある。私はアリストテレス自身の例を、彼が実際何を意味しているかを見るために読んでみよう。彼は大前提をA、中前提をB、小前提をCであらわしている。彼の例を上記のような具合に書き直すと次のようなものとなる。

 

C    A            B       A

人馬と騾馬は長命である。       胆嚢がないものは長命である。

  C    B            C     B

人馬と騾馬は胆嚢がない。       人馬と騾馬は胆嚢がない。

  B    A            C  A

胆嚢がないものは長命である。     人馬は長命である。

 

 彼は、「Aを長命とし、Bを胆嚢がないもの、Cを人馬や騾馬のような長命のものすべてとする」と言っている。彼は推論とは言っていないが、胆嚢のないあらゆるものは長命であるというのには、同じ議論を生理学の議論でもできるので、推論があることは間違いない。彼はそのあと、(右側の議論を参照しながら)次のように続ける、「AはC全体に属する。というのも、胆嚢のないあらゆるものは長命[大前提]であり、B、あるいは胆嚢のないものはC全体に含まれている[小前提]。」彼は、帰納的推論の厳密さの条件を言おうとしている、「もしCとBが一致し、各々が他のものであるなら、AがあらゆるBに含まれていることは必然的である。そして、我々はCをあらゆる個物から成り立っていると見なければならない。帰納はあらゆるものからの推論だからである。」これがアリストテレスの教義を十分に示している。

 

 帰納が単純な数え上げであること、あるいは、少なくともそうした帰納が存在することはあらゆる論理学者の説である。しかしながら、私はこの説に全面的に反対する。アリストテレスは、一般的な語が個物の総和と等しいことを明らかに仮定していた。しかし、これは容易に反駁される。個物はシンボルではなく、ただの記号である。それらは外延をもつとしても、内包をもたないことは確かである。つまり、その真理は対象のいかなる性質にも依存していない。たとえば、もし私がある少女をリチャードと名づけたとすると、リチャードは前例がどうであれ彼女の名前となる。こうした無意味のために、単独者は偶然によってのみ一般的語のもとに含まれるのであり、語そのものの意味によってではない。一般的な語についての了解とは、適用可能で、単に実際に生じていることだけではないあらゆる可能な事物の総計にある。であるから、単独者では決してこの広がりを満たすことはできない。「あらゆる人間」は、論理学では、人間一般を意味する。私は多分、これまでいたすべての人間を数え上げることはできようが、これからの人間を数え上げることは決してできない。「このページのすべての文字」とは、論理学では、ある閲覧者、あるいは、ある複数の閲覧者に限定されない。そうした意味の限定は一般性を失うことになり、単なる記号を残すことになる。つまり、論理的な了解とは、可能なるものの総計であり、可能なるものとは数え上げたものの総計ではない。

 

 しかし、単独者から一般が構成されるという間違いは、早くから気づかれていた。個物はいまだinfimae speciesと呼ばれることがあるので、単独者の数え上げではなく、特殊なものの数え上げが全体を構成すると語られる習わしとなっている。特殊なものという語は、厳密な使用においては「幾人かの人間」のように、不確定な制限を指す。「幾人かの」という語は、不確定で間接的ではあるが、一般的なクラスや性質を指す真のシンボルである。実際には、あるクラスや性質のシンボルではなく、そうしたシンボルについてのシンボルである。しかし、もちろん、この語は特殊なものの数え上げということでは異なった意味をもっており、論理的な属を種へと分割することを意味しているに過ぎない。この分割は、第一に、帰納によるか、第二に、種そのものに内包されるものによるか、第三に、なにか別の方法によるか、でなされるに違いない。しかしながら、そのどれもが帰納のデータをどう計算するかに答えてはくれないだろう。帰納による分割とは、単なる想定であって、帰納そのものを説明したり明確にしたりはできない。内包による分割については————それは帰納ではなくジレンマに導かれるだけだろう。というのも、帰納数え上げによってなされ、数え上げは一つ一つ、最初から最後まで項目をあらわしていくことだからである。ジレンマというのは、一本を除いたあらゆるホーンと言われるとき、最期の一本は、後に明確にされる異なったものとして暗黙のうちにあらわされているからである。別の方法による属の分割で、なにか関連するものがあるとすれば、数え上げによるものでしかあり得ない。それについては、単独者の数え上げについて主張された反論が完全に当てはまる。純粋な論理学者にとっては常に当然のものと見なされる帰納の完全なデータというものが、論理的可能性の範囲にはないということになる。そして、帰納についてのあらゆる論理的説明がこの仮定に基づいているなら、真の説明には決して到達され得ないことになる。