ブラッドリー『論理学』 8

[実践的推論でもない。15]

 

§15.長らく生気を失っていたが、頑強に場所を塞いでいた教義を反駁することから代わって、最新の誤り、判断と実践的な信念との混同について考えることにする。私はいかなる心的な活動がどれだけベイン教授の理論と整合性をもつのか、あるいは生理学的には筋肉の神経分布に存すると思われる心的活動性の本性について論ずることもできない。それに、(疑いなく私の無知によるものだが)ベイン教授の生理学は驚くべき曖昧さで私を悩ませているとつけ加えねばならない。もし彼の見解を受け入れるなら、どちらにしろ訂正されるに違いないイメージと意味との混同を見いだすだけではないかという疑いに目をつぶらねばならない。(19)

 

*1

 

 我々は、判断は常に実践的なのか、という疑問は、意志がなんらかの形でそれに関わるものか、ということを意味しているのではないことを思い起こさねばならない。その場合、心的現象の発生は<すべて>意志のもとに生じると論じられることとなろう。この疑問が意味しているのは、判断の本質は、真や偽を生みだすことにあるのではなく--それがあらわす事物のなにものをも変えることがない--現実に存在するものに実際的な変化を生みだすことにある、ということである。より簡単に言うと、ある観念が真だと判断されるとき、それは判断が他の現象を<動かし>、その肯定なり否定はこの動き以外のなにものでもないことを意味している。この教義は、ある観念が真とされることは、同じ観念がそのように示唆されることとは大きく異なることを認める。そしてその<本質的特質>とは我々のふるまいにおける観念の効果にあって、それ以外に<本質的特質>などないと主張する。

 

 先に進む前に論理的誤りがあることを指摘しておこう、というのも、この誤りがベイン教授を道に迷わせているからである。肯定された観念が行動の原因となり、信じられていない観念はふるまいに影響を与えないと仮定してみよう。こうした前提から、それゆえ判断は影響力の<ある>ものなのだと結論することはできるだろうか。別の言葉で言えば、AがBに変わり、疑いようのない相違qがあって、qはAが変わった後でしか見いだせないとするなら、このことは、変化がqに存するという主張を正当なものとするだろうか。qはpの後に続くもので、pこそが実はAをBに変えたのだということも可能ではないだろうか。この論理的誤りを十分心にとめておこう。我々が調べようとしている主張とは、実践的な影響が我々に判断を引き起こす、あるいはなんらかの判断がそれに由来するというものでは<ない>。主張されているのは、判断はそれ以外のなにものでもないということである。

 

 この間違った<本質的特質>に反対して、私は簡単に次のことを述べよう。(a)この<本質的特質>は事実には欠けているかもしれない。(b)これは他の事実と結びついているかもしれない。(c)事実は他の特徴を含んでおり、、それが真の<本質的特質>であり、間違ったものではないこともある。(d)間違った本質的特質が事実を排除する絶対的な性質をもっていることがある。

 

 (a)もし、三角形の内角の和は二直角に等しい、といった抽象的な例で理論を検証するなら、それはすぐに崩壊する。観念によって及ぼされる実践的な影響を常に見いだすことは不可能である。「しかし、影響を及ぼしている<かもしれない>、あなた方はきっとそれに基づいて行動している<だろう>」という答えが返ってくるかもしれない。こうした答えは「経験論」では通用するかもしれない。しかし、哀れな「超越論者」であれば、特権を不法に行使したとして責められることだろう。少なくとも、事実に対して特定の意図と可能性と単なる観念とを見てとることは許されない。そして、次のような疑問、つまり、影響は存在するのかしないのか、という問題を免れることはできない。もし存在しないなら、ベイン教授の理論が消え去るか、定義を変え、観念は潜勢力と結果を生みだす傾向によって富まされるときに判断になるのだと言うことになる。(20)もしそれらが観念では<ない>なら、あるが<ままの>ものだと言われる。しかし、もしそれが最初の観念に伴う観念に過ぎないなら、我々の答えは簡単である。第一に、そうした影響が常に存在するというのは真実ではない。第二に、それが加えられたときに実践的な影響を及ぼさねばならないというのは真実ではない。

 

*2

 

 (b)第二に、観念は真実だとは決して認められないにもかかわらず、私に影響を及ぼすかもしれない。ある観念と結びついた感情や情動は、その観念が真とは認められず、誤りであることさえわかっているのに決断を妨げたり生みだしたりすることができる。私はアシナシトカゲが噛み、雄バチが刺すことはないと信じてはいても、尻込みしてそれに触れようとはしないかもしれない。幽霊など信じていないにもかかわらず墓地を避けるかもしれない。幻影は、幻影として認められれば意志決定に大きな力を及ぼしたり、常に同じ影響を与えたりはしない。しかし、信じていないにもかかわらず、影響を及ぼすことはあり得るのである。*もしなにかを幻影なのだと判断したら、それを完全に無視することになろう、というのもそうした無視こそが判断<である>から、と言わねばならないような見方は真実とはいえないだろう。

 

*3

 

 容易に例証できるような点にこれ以上とどまるのはやめよう。しかしながら、ついでに、真には思えないのに我々の行動に影響を及ぼす観念の種類を読者に思い起こしてもらおう。私が言っているのは経験的な観念、不満足を感じているときの満足された欲望の表象である。それらが我々を積極的な追求に駆りたてることは確かであり、それらが真であると判断されないことも同じように確かである。(21)というのも、もしそれが真実なら、まさしくそのことによって、それは我々を動かすことに失敗するからである。*

 

*4

 

*5

 

 (c)しかし、すべての判断が実際に行動を引き起こすと仮定してみよう。このことは判断とはそうした行動以外のものではないことを示していないだろうか。きっとそうではない。我々はある示唆された観念が真実だと判断されたとき、我々に起ることを観察することができる。明らかにある活動性(どれほど記述することが困難であっても)が姿を現わし、まだ(<偶然による>以外は)世界や我々自身に変化をもたらすには至っていない。この真の<本質的特質>が証明されるなら、それで問題は解決するだろう。(22)ここで再び、直接的な観察から離れて、間接的に議論することができる。肯定と否定は、真と偽の相違とともに、真の現象であり、そこには意志に対する観念の影響を免れるなにかが存在する。明日は雨が降るだろうという判断が、今日傘を買うことと同じなら、あるいは、長靴を履きなさい、というのが昨日は土砂降りだった、ということよりより真実に近い形式だというのはおかしなことである。子供がベリーを見て、これを食べて調子が悪くなったことがあると判断したとき、肯定という行為が行動を差し控えることにあり、それ以外のものではないことも奇妙に思われるだろう。

 

*6

 

 (d)実践的態度に判断の真性の特徴がないだけでなく、真の判断を欠いた性質を見いだすこともある。示唆された真実は程度の問題ではなく、観念を現実に当てはめる行動はそれを指し示すか示さないかである。多少の違いやある程度ということはあり得ない(第三章参照)。言葉を厳密にとれば、半分の真実とは真実ではなく、「多かれ少なかれ正しい」というのが実際に意味しているのは「それは制限つきで正しい」と言っているのか、「全体としては正しくないが、多少の部分は正しい」ということである。しかし、観念の実際的な影響には程度があり、それは判断がもっていない性質なのである。

 

 こうした理由から、どれか一つだけでも十分なのだが、我々の眼前にある教義が失敗したことは明らかに思われる。この誤りの一つの原因は、我々が次に指摘しようとしている重要な区別を無視したことにあるように思える。判断は主として論理的なものであり、程度というものがない。観念内容と現実との関係は存在するかしないかでなければならない。他方、信念は主として心理学的なものであり、理論的であれ実践的であれ、程度が存在する。(a)知的信念や確信はある種の判断に対応する一般的なものである。AがBであることを信じるということが意味するのは、A-Bという観念が示唆されたとき、いつでもそれを肯定するということである。あるいは、その観念は私の心の大きな部分を占めており、持続的な習性や支配原理となっており、私の思考を支配し想像力を満たしているので、A-Bという主張は頻繁に繰り返され、様々な方向に知的枝分かれやつながりを生じている、ということである。しばしばあることだが、A-Bをそれほど信じられない場合には、それはより劣った影響力しかもたないことになる。A-Bが示唆されたとき、私はそれを辛うじて信じるか、ときには疑うこともある。これもよくあることだが、疑いに反対してためらいがちに主張し、一貫した態度をとり続けられないことがある。あるいは、まったく信じてはいないのだが、多かれ少なかれどちらの側にも根拠があると多かれ少なかれ納得はし、どちらか一方に心は傾いているのだが、一線を越えてそれを主張するまではできないこともある。(b)実際的な信念においては、こうした知的確信の程度の他に、程度に関わるもう一つの要素がある。知的内容の真実が程度に関わるだけでなく、それに加えてその私の意志への影響も程度に関わる。より強い、永続的な、あるいは一般的により支配的な欲望には答えるが、弱いつかのまの衝動には答えないことがある。存在の程度ばかりでなく、活動の程度もあり得るのである。こうした曖昧さが指摘され避けられない限り、混乱を明らかにするのは容易ではないと私は思う。ベイン教授の主な論理的誤りとは、「信念は行動を導きださねばならない」という(誤った)前提から、「信念とは行動を引き出すもの<である>」という見当違いの結論を出したことにある。*

 

*7

 

*8

 

*1:(19)ベインの意志の理論については、『マインド』49号27頁以下を参照。プラグマティストによるベインの不公平な無視、あるいは、彼の冒険的な誤りから学ぶ能力がないことは、私が思うに、彼らにとって高いものについている。『エッセイ』70-1ページを見よ。読者は気づかれることだろうが、私は既に1883年において<実用的>とはなにか、という問題を扱っていた。503ページの注と巻末エッセイXIIを見よ。

*2:(20)『エッセイ』(前掲)参照。

*3:

*それが影響している<とき>、否定は宙吊りにされるのだといわれるかもしれない。しかし、私はそうした発言の根拠を見いだすことができないと告白する。少なくとも、肯定的な判断がないにもかかわらず観念が影響を与えられることは確かである。

 

*4:

(21)「真であると判断されない」これには「我々の存在する世界では」とつけ加えるべきであり、そうでなければこの言葉は真ではない。『エッセイ』第三章、特に35頁、本書巻末エッセイXII参照。

 

*5:

*この点については『倫理学研究』所収のエッセイⅦで触れた。

 

*6:(22)<同意>という感情の性質については『エッセイ』377頁の注、『マインド』46号13頁以下を見よ。

*7:

*『感情』(1875)の第三版で、ベイン教授は明らかにこの問題を再考しているが、私には彼が自分の理論を捨て去ったのか、言い過ぎた部分を改めたのか判断ができない。この最新の理論は私にはまったく理解できないので、私の言及は初期の理論に限らざるを得ない。本書を書く前に、私はサリー氏のベイン教授の教義に対する批判を知っていた(『感覚と直観』第二版、1880年)。しかし、私の見たところ、<彼は>ベイン教授の第三版(1875)を扱っており、そこでは以前の版に対する自分の批評が、それが存在しなかったかあるいはいずれにしろそんなことは大した問題ではないかのように、最大限の敬意をもって扱われている。私自身は、上に述べた理由から、以前の理論に自ら限定しなければならなかった。(23)

 

*8:(23)(サリー教授79頁の注を見よ)ベインが実際に見解を変えたのかどうか、ここで追求する必要はない。私がベインの難点だと思っているのは、明らかに信念のないところでしか存在できない「知性」や「知識」ということで彼がなにを意味しているのか筋の通った考えを得ることができないことにあった。彼は(J・S・ミルのように)ある問題に直面しており、それは先人から受け継いだ前提に立つものだが、根本からねじ曲がっているためにまったく解決不可能なのである。『エッセイ』376-7頁を見よ。ベインの知性に関する見解については本書の324,491頁で再び取り上げている。