レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 5

 最初の実質的な問題は「文明」に向かう姿勢である。ここにマルクス主義の決定的な介入があって、「市民社会」と「文明」という語に含まれるものは、特殊歴史的な形で、つまり、資本主義的生産様式によってつくりだされたブルジョア社会として分析されるべきである。これは欠くことのできない批評的観点を与えてくれるが、文明という概念を生みだした仮定、最も明らかなところでは、進歩的世俗的な発展であり、広範囲にわたる単線上の発展が含まれている。ブルジョア社会と資本主義的生産は強く攻撃されるとともに、歴史的に進歩しているともみなされるのである(第二の点は、「ブルジョアは・・・蛮人や半ば蛮人の支配する国を市民社会に従えた」『共産主義宣言』53ページという具合にして受け入れられる)。社会主義は、次のより高次の発展段階としてそれに取って代わるのである。

 

 マルクス主義において他の要素とともに受け継がれているこうした観点と、それに先行する急進的な社会主義の運動を比較することは重要である。しばしば、特に「文明」の根源的な批判を含むもう一つの伝統に影響された初期の運動においては、決定的な意味をもつのは進歩ではなく、そうした発展にある根本的な矛盾である。「文明」は富、秩序、洗練を生みだすばかりでなく、同じ過程で貧困、無秩序、頽廃を生む。その「人為性」、「自然な」、「人間的な」秩序との紛れもない対照が攻撃される。それに反対して支持される価値とは続く高次の発達段階ではなく、人間に本質的な友愛であり、しばしば、獲得されるものであると同時に回復されるべきものとして表現される。マルクス主義とより広範囲にわたる社会主義運動のこれら二つの傾向は、結果的に一緒になることもあるが、理論上は、そして、特に結果として起きる歴史的実践の分析においては徹底的に区別する必要がある。

 

 マルクス主義が次に行なった決定的な介入は、マルクスが「理想主義的歴史主義」と呼んだ、啓蒙主義の行なった理論的手続きの拒絶である。歴史は知識と理性による無知と迷信の克服と(あるいは常にそうしたものと、あるいはそれが主要だと)見られるべきではない。こうした考え方や観点が排除するのは物質的歴史、「人間の諸能力についての開かれた書物である」労働や産業の歴史である。もともとの「自らの歴史をつくりだす人間」という考えは、自分の生の手段を生産することによって「自らをつくりあげる人間」が強調されることによって、新たな根本的に異なった内容が与えられた。詳細にわたって示すことは困難だが、これは現代の社会的な考え方のうちで、最も重要な知的進歩である。それは、「社会」と「自然」との二分法を克服し、「社会」と「経済」との間に新たな本質的な関係を発見する可能性を示している。文化の社会過程における基本的な要素を特殊化することで、それは歴史の全体性を回復した。「宗教と国家の歴史でしかなかった、いわゆる文明の歴史」において除外されていた物質の歴史を徹底的に取り込むことを始めたのである。マルクス自身の資本主義の歴史は、その最も顕著な一例でしかない。