レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 7

2.言語

 

 言語の定義とは、常に、明示的にも暗黙のうちにも、世界における人間存在の定義である。主要なカテゴリーとして受け入れられているもの――「世界」、「現実」、「自然」、「人間」――は「言語」というカテゴリーと対置され、関係づけられるが、いまでは、「言語」というカテゴリーを含めたすべてのカテゴリーがそれ自体言語の構築物だと一般的に考えられており、特殊な考え方の体系のなかで努力をしなければ、言語を関連する調査から切り離すことはできない。しかしながら、こうした努力と体系は、思想の歴史の主要な部分を形づくっている。この歴史から発する問題の多くはマルクス主義と関係しており、ある領域では、歴史的唯物論において、受け入れられている主要なカテゴリーの基本的な再評価を敷衍することで、マルクス主義そのものが貢献をしている。だが、意味深いことに、比較すると、マルクス主義は言語に関する思想には非常に僅かな貢献しかしていない。この結果は、言語を「現実」の「反映」だと見る制限された未熟な考え方が当然なものとみなされたのか、あるいは、他の、しばしば対立的な思想体系の内部で、あるいはその形式において発展してきた言語についての主張が他の種の活動についてのマルクス主義の主張と総合され、究極的には支持しがたいのみならず、現代においては社会的主張の力を根本的に制限するものだと見られたことからきている。文化理論、特に、文学理論に与えた影響はとりわけ著しい。

 

 言語に関する思想の発展においてマルクス主義に関心のもたれた主要な場面は、第一には、活動としての言語を重視する点であり、第二に、言語の歴史を重視する点である。どちらの主張も、それだけでは、すべての問題を言い換えるのに充分ではない。それぞれの立場の接続と、それによる再評価が必要である。そして、異なった方法をとり、意味のある実際的な結論が出れば、各々の立場は、世界のなかの人間存在に関する比較的静的な考え方に依存し、それを支えていた習慣的な言語の概念を変えることになる。

 

 活動としての言語に重点を置くことは十八世紀に始まり、それは、「文化」の新たな概念の中心的な要素と見られた、人間が社会を自らつくりあげるという観念に密接に関係している。それ以前の主導的な伝統では、様々な変奏はあるものの、「言語」と「現実」は決定的に切り離されており、哲学的な探求は、その始めからこの明らかに異なった秩序の間の関係を巡るものだった。前ソクラテス的なロゴスによる統一、言語が世界と自然の、神的なものと人間的法や理性とを一つにするものだとする見方は、決定的に崩壊し、最後には忘れ去られた。「言語」と「現実」との決定的な相違は、「心的」と「物理的」活動の間の現実的で実際的な相違に対応する「意識」と「物理的世界」の相違のように、習慣的になっているので、本格的な注意は、当然、とりわけ複雑な結果を生みだす関係やつながりに集中している。プラトンの言語についての主要な探求(『クラテュロス』に見られる)は、名づけの正確さの問題を中心にしており、「語」と「事物」との相互作用は「自然」あるいは「慣習」から生じるものとみなされる。プラトンの解決は結果的に観念論思想の基礎となった。「語」でも「事物」でもない「形相」、「本質」、「観念」といった媒介的であるが本質的な領域が存在する。「言語」や「現実」の考察は、常に、その根っこの部分において、こうした本質的(形而上学的)諸形式についての考察なのである。