ブラッドリー『論理学』 16

第二章 判断の定言的仮言的形式

 

§1.前の章では、我々は判断の主要な特徴を簡単に記そうとした。この章は我々の結論を支え深めることとなろう。ここで扱われる問題は、部分的には、ヘルバルトによって提起されたよく知られた議論に出くわしたことのある者にはおなじみのものだろう。この章の長さと難解さでは成功はおぼつかないが、長さにしろ難解さにしろ、この問題の現代論理学における重要さが十分正当化してくれているのだとあらかじめ言うことを許してもらわなければならない。

 

 判断はなんらかの事実や実在について何ごとかの述べている、と我々は自然に仮定している。それ以外のことについて肯定しようと否定しようと、そうした判断は取るに足らない主張となろう。我々はなにか言うだけではなく、現実のなにかについて言わなければならない。このように考えると、判断は真か偽でなければならないが、その真や偽は判断自身のうちにはあり得ないことになる。それは判断を越えたなにものかへの参照を含んでいる。そして、我々が判断をするそのものは、事実以外のなにがあり得るだろうか。

 

 客観性や必然的つながりについての意識には、判断の本質があると言われることもあるが、最終的にはその意味を実在への参照から引き出しているのがわかるだろう。真理とは、ある意味、真であることを強制されなければ必然的ではない(第七章を見よ)。強制は強制するなにかがなければ可能ではない。その力をふるうのが実在で、判断はそれについてなされる。実際、S-Pそのものが事実に関して定言的に真であることを我々は主張したりしないし、<それは>我々の判断ではない。実際の判断は、S-Pは実在であるxによって我々の心に強制されるものだと主張するのである。それがどのようなものだろうと、この実在が判断の主語である。客観性についても同様である。S-Pというつながりが私の判断の外側にあるなら、それはどこにもないのとほとんど変わらない。それはなにかとの関わりで正当なものとなるのであり、そのなにかとは実在でなければならない。疑いなく、S-Pはこの事実の直接的な真実とはなり得ない。それもまた我々の主張することではないのである。実際の判断は、S-Pがxとの関わりのうちにあることを主張する。そして、再び、これは事実についての主張なのである。

 

 確かに、真実が実在についての真でなければならないという自然な仮定が存在する。僅かの反省で達することのできるこの結論は、この章の結論でもある。しかし、それに到達するためには苦闘があり、問題の精妙さに悩まされることがあり、ある点では恐らく幻滅や動揺に襲われることもあろう。

 

§2.より重要度の低い難点を一緒に扱うことにしよう。「四角の円は不可能である」というのは、四角の円の現実の存在を肯定しているのではないと言われる(ヘルバルトI93頁)。しかし、あらゆる場合において我々が<文法上の>主語の実在を肯定するのだと主張しないなら、この反対は見当違いである。*そして、明らかにこれは常に我々が肯定しようとしていることではない。「幽霊は存在しない」、「この考えは幻である」といった例も同じように扱うことができる。これは最初の形式とは違うし、実在をあらわす命題をでたらめにつなぎ合わせたものでもない。しかし、あらゆる命題において、意味の分析をすると、なにか別のものの実在が肯定されたり否定されたりしているのがわかる。「空間の性質は四角と円とのつながりを排除する」、「世界には幽霊が存在する場所はない」、「私はある考えをもっているが、それが指し示す実在とはその意味とは別のものである」--こうした翻訳を最初の例に対する攻撃への予備的な答えとすることができる。次に、ヘルバルトが「ホメロスの神の怒りは恐ろしい」(I.99頁)といった言葉で責め立ててきても、我々はこうした武器に譲歩する必要はない。ホメロスにおいてはそうなの<である>。確かに詩は、確かにある種の想像力は、確かに夢や幻覚は、確かに我々の言葉や名称より多くのものはある種の事実なのである。こうした異なった秩序にある存在の区別というのは容易なもので、決して混同するべきではないし、自家撞着はこうした反論を熱心に行なう者の方にある。†

 

*1

 

*2

 

 更に、この誤った議論が繋辞にまで及ぶと、同じ誤解が知らず知らずのうちに繰り返されるのを我々は見ることになる。我々が性質づけをするときには、判断を越えて存在し、我々の頭のなかでかあるいは外でか、(どのような形であれ)実在するものを性質づけする。こうした意味において、我々はそれは「存在する」もの以外をあらわすことはけっしてでき「ない」と言わねばならない。*

 

*3

*1:

*ウヴェルウェグはこの間違いを犯しているように思える。『論理学』§68

 

*2:†我々がさしあたり無視してしまっている難点があることは私も認める。誰もホメロスを読んでいないとき、神の怒りを我々は誰に帰することができるだろうか。言葉の意味は確かで否定できない事実であるが、その固定したつながりはどこに見いだされるだろうか。誰もそれを開かなくとも辞書のなかにあり、誰も使うものがなくともその用例のうちにあるのだろうか。しかし、こうした問題は伝説ほどではないが事実にも、名称ほどではないが事物にもある。数学的真理は、少なくとも、数学の内部では効力をもつ。しかし、数学とはどこにあるだろうか。我々は砒素が毒だと信じているが、誰もそれをのまなければ、誰も砒素のことを考えさえしなければ、毒になることなど全くない。後でこの問題についての議論に戻ることがあろう。

*3:*読者はヨルダンのDie Zweideutigkeit des Copula bei Stuart Mill,Gymn.Prog.Stuttgart,1870、ブレンターノ『心理学』第二巻第七章を参照のこと。別の側面から述べたものには、ドロビッシュ『論理学』§55-6、シグヴァルト『論理学』I、94がある。