ブラッドリー『論理学』 19

§7.しかしながら、この結論は容易に持ちこたえることができない。というのも、もし真理がそのようなものであったら、あらゆる真理は偽と大して変わらないものとなってしまうだろう。我々は定言的判断をそう簡単にあきらめることはできない、というのは、もしそれが失われると、全てが失敗してしまうからである。探求を続け、どこにも定言判断は見いだされないのだろうか、という疑問を持ち続けることにしよう。見いだすことができるようにも思える。普遍的判断は、個別的な実体ではなく、形容詞のつながりについて言うために、仮言的なものだった。しかし、単称判断では事態は異なるだろう。定言的に肯定する主語が個的なものであるか、個的なものの集合であるとき、その真理は事実を表現する。ここには単なる形容詞や仮定は存在しない。

 

 これらの判断は三つの大きなクラスに分けられる。この区別は以後非常に重要性をもつこととなろう。(i)第一に、私がいま知覚し、感じているもの、あるいはその部分についての判断である。「私は歯が痛い」、「狼がいる」、「あの枝が折れている」。これらにおいて我々は単に与えられたものを分析しているに過ぎないので、これを<感覚の分析判断>と呼ぶことができる。*(ii)それから、<感覚の総合判断>があり、いまここで直接に知覚してるのではない時間空間内の事実や事物の性質について言われる。「この道はロンドンに通じている」、「昨日は雨だった」、「明日は満月だろう」。これらは与えられたものを観念的構築を通じて敷衍しており、後に見るように、すべて推論を含んでいるので、総合的である。(iii)三番目のクラスは、時間においては決して感覚されない出来事を扱うものである。「神は霊である」、「魂は実体である」。我々はこうした判断の正当性を好きなように考えることができるし、それを形而上学の問題として認めるのを拒否することもしないこともできる。しかし、論理学においては、確かに、それはある場所を占めているに違いない。

 

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§8.しかし、もし判断が二つの観念を結びつけることにあるなら、我々はこうした場所に逃げ込めない。この点を明瞭に理解すべきである。観念は普遍的なものであり、それによってなにを言おうとしぼんやりと意味しているにしても、我々が実際に表現し主張に成功しているのは、まったく個的なものではない。感覚の分析判断をとってみよう。我々に与えられる事実は一つしかないもので、唯一無比である。しかし、我々の用語はすべて一般的で、述べられた真理は他の多くの事例に当てはめることができる。「私は歯が痛い」では、私も歯痛も一般的なものである。<現実の>歯痛は他のいかなる歯痛とも異なっており、<現実の>私はまさしくこの歯痛を感じている私自身である。しかし、私が主張している真理は、異なった私の異なった歯痛すべてについて真であるし、これからもそうであろう。いや、「私は歯が痛い」というのは、他人の歯痛でも同じように真実で、「そんなことはない、<私こそ>歯が痛い」と言われることもあり得る。元々の発言に「この」、「ここ」、「いま」などをつけ加えても無駄なことで、というのも、それらはみな普遍的なものだからである。その意味が無数の例に敷衍され用いられるシンボルである。

 

 かくして、判断はある種のものについてはそれがなんであっても真となろう。しかし、もしそうなら、それは実在についての真とはなり得ない。というのも、実在は唯一無比のもので、一つの事実であって、ある種のものではないからである。「あの枝は折れている」、しかし折れている枝は他にも沢山ある、「この道はロンドンに通じている」、そうした道は何百とある。「明日は満月だろう」はどの明日かを知らせてくれない。将来にわたって、次の日が満月になる日には常に真である。こうして、現実の事実について言明することにことごとく失敗しており、我々は代わりに別のなにかを言明している。すべてにおいて真実であるものは、この一つを表現しない。主張は永久に形容詞に固着していて、実体には到達しない。支えのない形容詞は宙に浮いている。その現実とのつながりは仮定されたものであって、肯定されるものではない。判断が観念に制限される限り、事実への参照は言外の意味にとどまっている。それは肯定判断の外側で仮定されており、判断は我々が隠されていた条件によって性質づけするまでは厳密には真ではない。そのままでは、単称命題としても間違っているし、厳密な普遍としても誤っている(以下§62参照)。



*1:*こうした分析、総合判断は、一瞬たりともカントのものと混同されてはならない。後に見るように、可能な判断というのはすべて、分析的でもあり総合的でもある。すべてとは言わないまでも、感覚に関するほとんどの判断は所与を超越しているという意味で総合的である。