ブラッドリー『論理学』 20
§9.しかし、判断は、前の章で見たように、観念に限られるものでもなく、決してその総合に存するわけでもない。二つの観念が必要だというのはまったくの錯覚であり、二つ揃うまで判断を待つようでは我々は判断などまったくできなくなるだろう。繋辞が必要だというのもまったくの迷信である。判断は繋辞がなくとも、一つの観念しかなくとも存在することができる。
最も単純な判断では、ある観念が知覚に与えられたものを指し示すものとされ、その性質の一つと同一とされる。その観念が主語としてあらわれる必要はなく、主語であったとしても、我々は文法上のあらわれと事実とを区別しなければならない。実際の主語であり、観念内容の本当の実体は現前する実在である。後に見るように、「これ」、「ここ」、「いま」が主語となるときには、知覚にあらわれる現実の事実が真の主語であり、これらの語句は真の主語に我々の注意を向ける役目をする。しかし、このことについては後の章に譲ろう。既に我々が認め、これからも確かめていこうとしているのは、あらゆる判断は現前のうちにあらわれる実在の属性として観念内容を述語とする、ということである。
この観点から我々は議論に戻らなければならない。この基礎に立ち、我々が見てきた様々な判断を新たに調べ、その意味とさらには正当性を尋ねてみなければならない。定言判断を探求する上でのいくつかの難点は、既に消え去った。しかし、恐らくは手強いものが待ちかまえているに違いない。そして、もし我々が、あらゆる真理は最終的には実在に関して真なるものである、という結論にたどり着いたなら、その教義を不完全な形で主張しているのだと思わなくてもいいに違いあるまい。
§10.しかしながら、まず、定義をしておかなければならない。我々が使ってきた語句は、故意に曖昧なものだった。我々は、究極的な主語である実在、知覚の対象を、移ろいゆくあらわれと同一のものと考えるべきだろうか。それはあり得ないこと、そうした見方では諸事実について考えることはできないことを我々は見ることになろう。ここでは、この間違いに反対するための予備的議論をしよう。
時間の系列にあらわれる主語、我々が観念を述語として帰する所の主語は実在でなければならない。もし実在であるなら、それは形容詞的なものではないに違いない。反対に、自律的で個的なものでなければならない。しかし、個別の現象、つかのまのあらわれは個的なものではなく、それゆえ我々が判断で使用する主語ではない。