ブラッドリー『論理学』 21
§11.我々は実在が、少なくとも我々の知る限り、現前しているに違いない、と自然に考えている。もし私が直接それと行き合うことがなければ、私はそれを決して確かめることはできない。結局、私が感じるもの以外には実在ではあり得ず、私は自分に触れるもの以外は感じることができない。しかし、再び言うが、現前するものを除いては、私と直接に触れ合うことはできない。それがいまここにないなら、私との関わりはない。
「現前が実在である」、このことは疑いようのないことに思える。では、<それゆえに>つかのまのあらわれは実在であると我々は言うべきだろうか。それは間違いであろう。もし実在を単一の「ここ」、あるいは単一の「いま」(この意味において個物である)に限定したものとするなら、我々は処理することのできない問題をもてあますことになろう。というのも、普遍的判断の真理という難問を別としても、単独例を越えるあらゆる命題を失う脅威に脅かされるからである。実在が一瞬の現象に過ぎないなら、<総合>判断も同時に追放されなければならない。時間における過去や未来、私が直接に知覚していない場所は、「いま」、「ここ」を形容するものとして述語化され得ない。こうした判断はすべて、明らかに存在していないものを存在する性質とする、あるいは、実在をまったく非実在的である系列の一員として位置づけるゆえに誤りとなろう。
しかし、多分、我々はこの結論を避けることができると感じている。とにかく、前提については確信しており、それをあきらめることはできない。「実在はここにあるもの、いまあるものに限られる」しかし、これが正しいとすると、我々は「いま」、「ここ」ということでなにを理解しているのか知っていると思っていいのだろうか。というのも、時間と拡がりは連続的な要素のように思える。こことは他のここがまわりを取り囲んでいる一つの空間である。いまはたゆみなく流れ、現在から過去へと永久に過ぎ去っていく。
現在と呼ばれる時間を孤立させ、過去でも未来でもなく、移り変りもない<いまある>瞬間を固定することでこの難点を避けることができるかもしれない。しかし、ここで我々は希望のないジレンマに落ち込むことになる。持続が全くなくなり、この瞬間が時間ではなくなるか、あるいは持続があり、時間の一部であり、その内部に移り変りが認められるか、である。
実在のあらわれるいまが完全に切り離されたものであるなら、排除によって特徴づけられたこの現象は、見かけはどうあれ、自律的ではなく、実在ではないと言うことができる。この反対意見はともかく、いまここにも幾ばくかの拡がりがなければならない、というジレンマがある。空間や時間のどの部分も究極的な要素ではない。あらゆるここは幾つものここからできあがっており、あらゆるいまは幾つものいまに分解することができる。かくして、原子的ないまは時間の一部として姿をあらわすことはあり得ない。しかし、もしそうなら、どんな形ででも、それがあらわれることはあり得ない。他方、現実の時間がそうであるように、あらわれに持続があるとするなら、そのなかには継起があり、単一のいまのあらわれではなくなってしまうだろう。*これらのことから明らかなのは、瞬間的なあらわれは我々が探し求めている主語を与えてはくれないだろう、ということである。
§12.現在が分割することのできない変化のない時間の一部で、ここといまは間断のない原子的なものだと仮定するのは間違っている。言葉のある意味において、現在は時間ではない。そこには過程がなく、変化の流れのなかにある一点である。それは流れを線引きすることであり、精神を継起している一つの出来事と別の出来事との関係に固定することである。この意味において、「いま」とは「と同時である」ことをあらわしている。それは存在を意味するのではなく、時間の系列における位置を意味している。実在は、原子的瞬間において与えられるという意味で現前しているのではない。
我々が現前を実在と同一視するときに意図しているのはもっと別のことである。実在とは私が直接に接するもので、時間のどの部分でも、変化の連続的な流れのどの部所でも、私がそれに直面しているなら現前している。知覚に与えられたものは、たとえそれが私の手のなかで変化するにしても、それを私が知覚している限り、いまここにある。そして、この知覚において、私が特別に注意を向けている側面や部分は、また別の意味において、残りの内容よりもいまここにある。現前とは実在が私に直接にあらわれるこの持続によって満たされることである。現前としてはあらわれないと考えられるので、小さかろうが大きかろうが、出来事の継起には部分があり得ない。
ついでに、「現前」という言葉に我々が見いだした意味の違いとその関連をおさらいしておこう。(i)時間における二つの出来事は、<私の>系列において同時に与えられているなら、お互いにいまである。(ii)実在は時間系列にあらわれるので、その系列に<現在>であり<存在する>ものを見いだそうとする努力が原子的ないまという虚構をつくりだす。(iii)もし実在が決して時間の<なかに>存在することができず、そこにあらわれることができるだけだとしたら、私に接する系列の部分が私の現在になる。(iv)このことは、現前が実は時間の否定であり、決して系列において適切に与えられることはないという考えを示唆する。
*1:*これらの点を詳細にわたって証明するのは形而上学の仕事である。もし時間が異なった部分から成り立っているなら、それらの部分の間にも時間があるのだとしない限り、継起がどうやって説明されうるのか理解するのは困難である。それは擁護できかねる結論へと向かうだろう。しかし、変化という事実は、時間が連続的であることを示している。時間の各部分における変化の比率、出来事の数は、我々の知る限り、無際限に増やすことができる。このことは、時間のあらゆる部分において、一つ以上の出来事があることを意味している。もし幾つもの部分があるなら、運動とは、ある事物が一つの時間の幾つもの場所にある(これは事実である)だけでなく、(こちらは不条理だが)それらの場所において時間はまったく経過せず、すべてが厳密に同時的なことになる。私は詳細にわたる議論に踏み込むことにやぶさかではないが、この問題を論理学によって適切に扱うことはできない。