ブラッドリー『論理学』23

§15.判断は観念の総合ではなく、観念内容で実在を指し示すことである。この基礎づけから、我々は既に扱った多様な判断を解釈するよう努めねばならない。§7の単称判断、そのうちの感覚の分析判断と呼んだものを取り上げよう。

 

 I.その本質は、いまだけに関わり、所与のあらわれを越えでることがないことにある。単称判断は文法的主語や繋辞をもつことができない場合もあるし、また、一方、そのどちらかあるいは両方をもつこともある。

 

 A.繋辞も主語ももたない判断においては、観念は(a)感覚される実在の全体、あるいは、(b)その一部分を指し示す。

 

 (a)「狼だ」、「火事だ」、「雨だ」という叫びを聞いたとき、我々はある主張を聞いているのではないと言うことは不可能である。叫びを挙げた者は主張し、ある記号を口にし、それを用いて実在を指しているととられる。「狼だ」と叫んだときには主語や繋辞が使われてないので嘘つきではあり得ず、「これは狼である」と言ったときにはそれを使っているので嘘つきになりうるといった区別は実際的な人間ならば一笑に付すだろう。そうした口実は即座に退けられるものであり、我々もそれに従わねばならない。「狼だ」や「雨だ」では主語は特殊化されていない現在の状況であり、それが「狼」や「雨」の観念内容が当てられることで性質づけられている。ここで主語であるのは<現象的な>現在である。しかし外面的なみすぼらしさと内面的な惨めさを我々が一言で「悲惨だ」と言い交わすとき、その主語は所与の現実全体である。

 

 こうした一語は、実際には間投詞と言った方がよく、決して述語ではないだろう。もしそれが実際間投詞だとしても、それらは真や偽を伝えることはできない、と我々は頑固に主張しなければならない。その言葉以外にはなにも含まれない真の間投詞は、人が思うほど普通にあるものではない。<習慣的な>間投詞になるとすぐ意味をもつようになり、受けとられた観念の記号となり、内容を指し示すこととなり、真や偽の主張となりうる。

 

 しかし、実際には、事実はあらゆる問いかけを越えている。あなたは事実に関する言明を自分に伝えるものとしても、他人に伝えるものとしても発することができる。そのとき欺いているのでなければ、判断しているに違いない。その判断の主語とは、感覚される現前の総体であることは確かである。

 

(b)しかし、これは極端な事例である。ほとんどの場合において、現前の一部だけが真の主語である。我々はある与えられた側面を観念でもって性質づける。しかし、そこでは主語や繋辞はあらわれない。共通の理解や指さすことは言及することを制限するのに役立つ。見えている狼について「眠っている」、「走っている」と言い、夕陽を見ながら「沈んでいく」、「暮れていく」と言うなら、だれでも私が判断し肯定していることがわかる。確かに主語が省かれていると言われるかもしれないが、そうした見方は単なる言語学的偏見である。本当の主語は、省略されたものであれ表現されたものであれ、観念ではなく、直接的な感覚される現前である。*

 

*より以上の説明は、第三章2を見よ。

 

 また、我々が述語と呼ぶものは、実際には、表現されていない存在に関する判断の主語だと言われるかもしれない。しかし、この基本的な間違いについては、後に判断のクラスを扱うときに決着をつけられよう(§42)。

 

 B.次に、主語が表現されている分析判断に移ろう。述語の観念内容はここでは、主語としてあらわされる別の観念を指し示している。しかし、先の場合と同じく、この場合も、究極的な主語は観念ではなく、現前する実在である。それに向けて、二つの観念の内容とその関係が帰せられる。観念内容の総合はあらわれているものの(a)全体か、(b)部分かの述語とされる。

 

 (a)「いまがそのときだ」、「すべてがもの悲しい」、「いまは真っ暗だ」というような判断においては、ある観念が先行する部分の語られていない指示対象をあらわすものとなっている。しかし、どの場合も、主語は同じである。確かに、観念が実在と述語の間に介在し、主語の場所を占めてはいる。しかし、少し考えてみれば、こうした文の主語は現前したものであることがわかろう。直接的な主語は、単純なものであれ関係を具体化したものであれ、所与の実在全体を指し示す記号である。

 

 (b)呈示される事実が感覚される状況の全体ではなく、その一部分でしかないとき、我々は更に進むことになる。「あそこに狼がいる」、「これは鳥である」、「ここに火がある」というときの「あそこ」、「これ」、「ここ」は確かに観念であり、疑いなく判断の主語をあらわしている。*しかし、それらを調べてみればすぐに、再び我々は実在に向けての指し示し、今度は非限定的で総体的な実在ではなく、区別され指示された実在への指し示しを見いだす。それらの観念が判断の真の主語なら、黙って指を指すことも同じくそうであろう。

 

*「あそこ」や「ここ」を主語と呼ぶことに驚かれる方がいるかもしれないが、私の文章を理解してもらえれば、説明の必要はないだろう。「これ」、「いま」、「ここ」の観念の性質については、後に十分説明することになろう。

 

 §16.更に一歩進んで、「この鳥は黄色い」、「あの石が落ちていく」、「この葉っぱは枯れている」といった判断を取り上げても、なんの変わりもない。文法上の主語としてある観念は、確かに、非限定的な参照、指示の記号以上のものである。状況から一部分を区別するばかりでなく、それを性格づけ、性質を与えている。しかし、先にそうしたように、主語ということで観念ではなく、現前する事実を<意味する>ならば、今回もその真理は変わらない。「この鳥」ということでシンボル化される単なる観念を我々は述語によって言い立てようとしているのではない。「この鳥」によって区別され、性質づけられる事実に向けて、述語である「黄色」は向けられている。本当の主語は知覚されたものであり、その内容を我々の分析が「この鳥」と「黄色」に分け、そのまとまりにある観念的諸要素を我々が間接的に叙述する。

 

 同じことは、多様な分析判断のどんな場合にも当てはまる。文章を複雑にしてみよう。「乳搾りの娘に乳を搾られている牛は向こうの山査子の木の右側に立っている」この判断には、一つではなく幾つもの事柄があり、その関係も一つではすまない。それでも、それは、現実的な主語であり、真の実体である現前する状況の一部であり、この複雑な文は間接的にそれについて言明している。もしこのことを否定するなら、どこで線引きをし、判断のどの点において観念が感覚される事実に取って代わり、真の主語となるのか示してもらいたい。そして、言明を観念に関するものに限るがいい。牛と山査子の木と乳搾りの観念要素をとり、それを好きなように観念的に結びつけてみるがいい。そして、結びつけ終わったら、事実の前に立ち、この<事実>は判断のうちにははいらないのだろうか、と自問してみるがいい。事実を前にし、反省してみれば、観念だけを扱っていたのでは、言明から自分が意味していたことを抜き取る結果になるとわかるだろう。§20でこの点に立ち戻ることになるが、ここではよくある誤りを見てみることにしよう。