レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』16

 フォルマリストの体系は、当今の構造主義マルクス主義の一派のように、この点を「既に与えられたもの」、「経済構造によって最後の瞬間に決定されたもの」としてのみ触れることができる。この種の還元を避けるためには、「記号」と「信号」とのボロシノフの重大な区別を考えてみなければならない。唯物論的な実証主義だろうと、心理学的な行動主義であろうと、言語の反映理論において、あらゆる「記号」は、最終的には、「対象」と「意識」、或いは「刺激」と「反応」という単純なモデルにおいて「信号」に還元される。意味は、最終的には、対象の属性、或いは刺激の性格である「信号」を(繰り返し)認めることによって創造される。「意識」と「反応」はそうした属性或いは性格を「含んでいる」(というのもいまはそれが意味なのであるから)。こうした考え方の受動性と機械的なことはしばしば認められてきた。実際、フォルマリスムは記号を通じた意味の特殊な(形式的な)分節を主張することで、こうした受動性と機械的な部分に反対してきたのである。

 

 しかし、しばしば見逃されがちなのは、記号体系の決定論的な性格に基づくまったく異なった理論が、最終的には記号の固定した性格という似たような考えに依存し、結果的に、固定した内容を固定した形式に置き換えることに終わっているということである。敵対する学派の激しい議論は、「記号」(この言葉そのものがこうした傾向を可能にし導くのであるが)を固定した内容や固定した形式に移すことが活動的で実践的な意識の根本的な否定であるという事実を見過ごさせてきた。どちらの場合も、記号は、ボロシノフが本質的に限定され変化しないとして記号とは区別した信号の方へ向かっている。記号の真の性質(言語の意味作用と言った方が好ましいだろうが)は、形式的要素と意味(この性質は実際には、信号と共有するものであるが)との真の融合であるコミュニケーションにおいて効果的にあらわれる。継続する社会的活動の働きとして、修正と発達が可能である。それは言語の歴史において観察される真の過程であるが、「共時的な」分析を優先することによって無視されるか、或いは、二次的な付随的性格に還元されたのである。

 

 実際、記号として、意味作用の関係をもつことで――形式的要素と意味(内的な構造)の関係、そして実際にそれを実践的な言語として使用し、記号をつくりだす人々の間の関係――その形成の原理である社会的経験と同じく、弁証法的で生成的な属性をもつのである。特徴として、信号のように、固定された、決定的で不変の意味をもってはいない。事実上、意味の核はなければならないが、実際には現実に使用される際限のない状況の変化に応じて可変的な範囲をもっている。こうした状況は繰り返し訪れる関係同様新たな変化をも含んでおり、それが固定した「既に与えられた」内的な意味ではなく、むしろ「形式的要素」と「意味」――「形式」と「内容」――との力動的な融合である記号の現実である。ボロシノフが多重アクセントと呼んだこの可変的性質は、もちろん、死に絶えた言語の研究から生じた正統的な語源学や、「方言」や「間違い」から社会的階級的指標となる「標準的」言語を守ろうとする試み、「正確」で「客観的な」読みを唱える文学理論などによって力強く展開されてきた「正確」或いは「正しい」意味という観念に必然的に挑戦することになる。しかし、変動という性質――でたらめな変動ではなく、実践的意識の必然的な要素としての変動――は客観主義者の考える記号体系に重要な意味をもたらす。社会的決定の主要な事実を体系による決定の観念に還元することに反対する決定的な議論の一つである。しかし、あらゆる抽象的な客観主義に反対する重要な影響をもたらす一方で、「主体性」の問題の活発な再考を促す基礎を与えるものでもある。

 

 固定して変化しない信号は、実際には、事実の集合である。受け入れられ、繰り返され、新たな信号が発明されるかもしれないが、いずれの場合も集合的に働く。つまり、認識されねばならないが、意識的な個人による能動的な参加を排除する社会性(「社会」が共通に排除することのより還元された形として)のレベルにおいて内化される必要はないのである。この意味において、信号は固定した、交換可能な、集団的性質をもつ。特徴として、容易に出し入れができる。言語の真の意味作用は最初からそれとは異なった可能性、内的記号になり、活動的で実践的な意識の一部となる可能性をもっていなければならない。かくして、現実の諸個人のあいだの社会的物質的存在に加えるに、記号は個人に自分の主導のもとに記号を使用することを許す言語的に構成された意識の部分でもあり、表向きは社会的ではない個人的な内密なものと解釈されるものでも、社会的コミュニケーションの行為、或いは実践なのである。

 

 この観点は、コミュニケーション行為のすべてをあらかじめ決定された客観的関係と性質をもってできあがったものとみなし、そのなかではいかなる創造的自発的な行動も可能ではないとする見方と根本的に対立する。かくして、個人の主導や創造的使用の及ばない、機械的、行動主義的、ソシュール的な客観的体系を理論的に決定的に排除する。しかし、それはまた、内的に構成されているのは記号の社会的事実であり、固定化された変化のない社会的意味や関係ではないにしても限定された意味をもつものであるから、言語を個人の表現と取る主観主義的な理論をも理論的に排除するのである。「内的記号」――内的言語――の豊かで実践的な経験、「思考」と呼ぼうと「意識」と呼ぼうと実際の言語的構成と呼ぼうとかまわないが繰り返し個人的に覚知される「内的言語の活動性」によって、言語を個人的表現と取る理論が大きな力を得てきたし、得続けている。こうした「内的」活動は、少なくともその段階においては他の人間に語りかけ書き送られるものではない言葉の使用を含んでいる。この経験を排除する、或いは、明白な社会言語的活動性の残余、副産物、予行練習(実際にしばしばそうしたものであることもあるのだが)に制限しようとする言語理論は再び社会言語を実践意識に還元する。実際に言われていることは、記号は社会的なものであるが、記号としてのまさしくその性質において内化されると同時に――実際、現実の人間関係において、最初は自分の身体的力を表現することにのみ使われたのだとしても、記号は内化されねばならない――社会的物質的方法によって、コミュニケーションでいつでも使うことのできるものである。「内的」記号と「物質的」記号とのこの根本的な関係――しばしば緊張として経験され、常に活動、実践として生きられる関係――は更に根本的な探求が必要とされる。個人の発達心理学において、ヴィゴツキーはこの探求を始め、「内的会話」の特徴が、ボロシノフが言うように単に転移されたものではなく、それ自体本質的な構成要素であるという重大な区別を為した。それはいまだ歴史的唯物論の観点でなされている。複雑な関係性については、別の角度から、特殊歴史的な探求が必要であり、というのも、人間の身体的な要素のみによる言語の生産から、他の源からの生産、そこに含まれるテクノロジーと表記法の問題に関する物質的歴史を通じ、物質的生産過程そのものの部分として現在重要なものとされている複雑なコミュミケーションシステムの活発な社会史に至るまで、社会言語の力学――基本的生産手段における新たな生産手段の発達――が見いだされねばならない。

 

 同時に、ボロシノフに従い、すべての社会過程は実在の個人間の活動であり、言語という社会的事実(「外的」会話だろうが「内的」会話だろうが)に十全な形であらわされる個人性は、異なった身体的存在のなかで、個人の生を実現させる社会的な力を能動的に構成するものである。この正確な意味合いにおいて、意識は社会的存在である。活動的で社会的な発達と関係を通じて、社会的な能力を有することであり、「記号体系」である。ボロシノフは、こうした根本的な再提言がなされた後でさえ、「記号体系」について語り続けた。その定式化はソシュール言語学によって決定的な形で為された。しかし、彼の議論を追うと、この定式化がいかに困難で誤解に満ちたものとなりうるかがわかる。「記号」そのもの――しるしや徴候、形式的要素――は、内的な構造を示すばかりでなく、内的力学を示し、可変性と内的に活動的な要素を強調することで再評価されるべきである。同様に、「体系」は固定した「社会性」ではなく、社会過程を強調することで再評価されるべきである。この再評価は部分的にはヤコブソンとティニャーノフ(1928)によって、フォルマリストの議論のなかで、「あらゆる体系は必然的に進化の一過程として存在し、他方、進化は体系的な本質から免れることはできない」という認識のもとに為された。これは必要な認識であったが、「進化論的な」カテゴリーの内部で決定される体系という観点――客観的観念論におなじみの物象化――によって限定され、社会過程を十分に視野に入れた修正の必要がある。絶対的な優先事項として、人間は体系以前に、抽象的な意識ではなく実践的なものとしてその決定が把握され行使される、体系がその産物であるようなものと関わり、またか関わり続ける。

 

 こうした変化は、言語についての継続的な探求によってなされるだろう。しかし、最後の点は最終的な難点を示している。意味を創造する社会的過程の多くは客観主義的言語学では、記号の形式的関係――つまり、体系的な性質――に投影されてきた。記号のレベルで抽象的静的に考えられた記号は全体としての体系の相関的な「法則」或いは「構造」であるある種の運動――凍りついた決定的な運動、氷原での運動であったが――に組み込まれた。文法という形式的側面を含んだ相関的な体系は、いずれにしろ避けがたい。ソシュールのであろうとボロシホフのものであろうと、「記号」の孤立化は、最上では分析の手段であり、最悪では逃げ口上になる。全体系における諸関係についての重要な研究の多くは明らかな進歩を見せ、記号の可変性の問題は形式的関係の可変性のなかに含まれうるように思われる。しかし、こうした相関的な体系の重視が明らかに必要であるにしても、前提となる記号の抽象的な定義によって結果は限定される。(理論的な)可変的単位の高度に複雑な関係は、決して実質上の関係とはなり得ない。形式的な関係に止まらざるを得ない。社会的物質的関係及び形式的構造を含む記号の内的力学は、社会的物質的なものと同時に、システム全体の形式的力学に必然的に結びつくものと見なければならない。最近の研究ではこの方面で進歩を見せているものもある(ロッシ-ランディ、1975年)。

 

 しかしまた、すべての問題を再び始めからやり直すかのような動きもある。チョムスキー派の言語学では、初期の客観主義的体系では排除されていた、個人の独創性や創造的実践についての可能性や事実が強調されたシステムの概念に向けて決定的な一歩が踏み出されている。しかし、同時に、この概念は言語の起源や発達について、通常の社会的歴史的考察とは確かに両立しがたい言語形成の深層構造を強調しもする。歴史的次元にあるというより進化的な次元にある、深層の本質的な構造を強調することは、もちろん、言語を人間に本質的な能力と見なす考え方とは一致しうるだろう。決定的なやり方で、人間の発達そのものに影響を与え限界を定めるものとしてである。しかし、もっぱら進化的な過程としてのみ考えてだけいると、必然的に「体系的な進化」を物象的に考察することに向かうことになる。継続する社会的実践のなかで実際の人間によってなされるというより、確定した体系や構造によって発達する(その構成は変異を許すとともに制限する)ことになる。ここで内的会話と意識についてのヴィゴツキーの作品が理論的に重大になる。

 

 

会話と知性の初期の発達を――既に見たように、動物でも非常に幼い子供でもそれらは異なった道筋にそって発達する――内的会話と言語的思考の発達と比較すると、我々は後記の段階を初期の段階からの単純な結果ではないと結論せざるを得ない。生物学的なものから社会歴史的なものへ、発達そのものの性質が変わるのである。言語的思考は、行動の生得な自然の形ではなく、歴史的文化的過程によって決定され、思考と会話の自然な形には見いだすことのできない特殊な属性と法則をもっている。(『思考と言語』、51)

 

かくして、我々は生物学的な言語の能力という必然的な定義に加え、本質的なものとして、同じように必然的な歴史的社会的に構成される言語発達の側面――個人的であると同時に社会的な――を定義に加えることができる。そのとき我々が描きだすことができるのは、弁証法的な過程である。人間の実践意識の変化であり、そこでは進化的過程と歴史的過程が双方とも十分に強調されるが、また、実際の言語使用の複雑な変化のなか区別もされるのである。この理論的土台から、通常の正統的なマルクス主義では、言語そのものと同様、集団的労働の一機能であり(上部構造での)副産物に還元され、抽象的で後ろ向きの概念とされる「文学」を、書くことが社会的歴史的に特殊な発展を遂げたものとして区別することができるようになる。しかし、そこに進む前に、行く手を塞いでいる、言語と意識の初期の理論に基づいた文学の概念を調べてみなければならない。