ブラッドリー『論理学』24

§17.固有名の主語に関する奇妙な錯覚が広く行き渡っている。固有名詞には<含意>がない、あるいは、より一般的な専門用語を使えば、<内包>がないといわれている。通常の言語においては、それはなにかを<あらわす>が、何ものも<意味>しないとされている。

 

 もしそれが正しいなら、「ジョンは眠っている」といった判断においてなにが意味されているのか理解するのは困難となろう。実際、いかなる帰結も恐れず、ここではジョンという<名前>がこの文の主語だと語る思想家もいる。こうした人たちの敵になる度胸は私にはとてもないと告白しておく。私の邪魔がなくて喜ばしいと彼らは言うかもしれない。しかし、もし我々がより英雄的ではない解決を受け入れようとし、<人間としての>ジョンが判断の主語だと仮定し、名前自体はなにも意味しないとするなら、私は名前の目的をまったく認めていないことになる。なぜ名前など無視して、男を指さし、「眠ってる」と言わないのだろうか。

 

 「しかし、それは男をあらわしている」と答えがあるかもしれない、「彼がそこにいるのだとしても、指さすよりもっとはっきりとした<しるし>をつけることになるのだ」と。しかし、それこそが私を悩ませるものである。もし、名前が使われるとき、それによって伝えられる観念が存在<する>なら、それがなにかを意味する、あるいは、こう言った方がよければ、「含意」があるに違いない。他方、もしなんの観念も伝え<ない>ならば、それはある種の間投詞のようなものとなろう。「これ」や「ここ」といった指さすことと観念的に等しいことを言うと、それは確かに意味を<もっている>が、不運なことにその意味は曖昧で普遍的なものである。なにをとっても、あらゆるものが「これ」にも「ここ」にも当てはまるからである。しかし、ジョンという名が彼を指さすことと観念的に等しいと断言するなら、私はあなたが自分でなにを言っているのかわかっているかどうか疑問に思わざるを得ない。

 

 「しるし」という語には二つの意味があり、恐らく我々はそれを混同している。それは、区別の手段としてつくられたもの<かもしれない>し、そうした手段の結果つくられたもの<である>場合もある。推察するところ、私には推察する以外ないのだが、ここではしるしは最初の意味にとられているのではなく、従って、彼は他の人間と異なった人物として捉えられておらず、ジョンというしるしのついた人間として見いだされている。しかし、後者の意味をとると、名前というのはそれが記号であるがゆえにしるしであり、しるしと記号とは同一のものとなる。

 

 さて、記号が意味を欠いていることはあり得ない。もともと<任意の>しるしとしてつけられたものがその過程において記号となり、それが意味する事物としっかりと結びつくことで、その事物の性質や性格とも結びつくことになったに違いない。もしそれがある程度まで事物を<意味>しないなら、その事物を<あらわす>ことなど決してできないだろう。それでは、それが指し示すものがわかっている固有名詞がなんの観念も<もたない>、あるいは偶然のつながりによる観念しかないのだと言うことができようか。観念がすべて取り払われたとしたら、単なる名前とそれがあらわす事物との間にどんな関わりが残されていよう。すべてが一緒に消え去ってしまうだろう。

 

 あまりに自明なことなのでどう説明していいかわからない。記号の意味は、もちろん、固定される必要はない。それがあらわす事物もまったく一定不変だろうか。もし「含意」が不安的なものであるとしても、「明示的意味」は決して変わらないものなのだろうか。後者が固定されているところでは、前者も(その限度内で)変化しない。「ウィリアム」という言葉がなにを含意するのかなんの観念もないということはあるかもしれないが、そのとき、あなたはその言葉がなにをあらわしているのかほとんど知ることはできないのである。すべての問題は単純な誤りと誤解からきている。

 

 §18.「しかし、結局、名前は個的なものの記号で、意味は包括的で普遍的である。それゆえ、名前は記号がもっているような内容をもつことはできない」私は到達したいと思っている結論を示唆するためにわざとこうした反対意見を挙げてみた。ある人間の名前は個的なものの名前で、変化する個物のなかで元の姿を保っており、それゆえ、個的なものに関する判断は完全に分析的であることはない。それは与えられたものを越え、総合的となるので、それをもって単称判断のもう一つの部類に入ることになる。

 

 固有名詞は、常にある瞬間の現前を越えた意味をもっている。そうした名前が移り変わる知覚を通じて持続する対象をあらわさなければならない、というのは実のところ真実ではない。それが指し示す唯一無比の事物はただ一度だけ、一瞬の現前に限られる出来事であるかもしれない。しかし、その対象は、自らがはじき出された系列への関連が含まれていないとしたら、唯一無比であるとも、特殊性があるとも言えないだろう。単なる意味の分析では、唯一無比であることをもたらす制限関係を決して示すことはできない。

 

 そして、我々が永続し幾度もあらわれる対象の固有名を取り上げるなら、所与はより高度な意味合いにおいて超越されることとなる。そうした名前の意味は普遍的で、その使用は真の普遍性、個別の瞬間を越えた同一性を含んでいる。というのも、人が個別な人間として認められなければ、自分の名前をもつことはできないだろうし、その認知は文脈が変わっても同一のままであり続けることにかかっているからである。異なったときにおいても同一視できるような属性をもっていなければ、我々はなにものをもそれと認めることはできない。個的なものは、我々がその性質として述べるあらわれが変化しても同一なものであり続ける。それは、真の同一性をもっていることを意味している。固有名とは、実際に実在の世界に<ある>普遍的なもの、観念内容の記号である。

 

 この仮定、固有名に与えられた働きが擁護しがたいものであるのは間違いない。ここで我々に関わってくるのは、この働きが現前する実在を超越するということである。「ジョンは眠っている」において、究極的な主語はそこに与えられた実在ではあり得ない。というのも、「ジョン」は単なる分析では得られない連続的存在を含んでいるからである。我々は総合判断のクラスに達したわけである。