ブラッドリー『論理学』26

 §21.時間的空間的排他性がその内容を唯一無比なものとするという意味で、空間と時間が「個別化の原理」だとするような誤った考えは(もしもっているなら)捨て去らねばならない。「出来事」について語ることで、実在や堅固な個物に降り立ち、雲をつかむような普遍的形容の領域を去るのだと思うのは錯覚である。空間と時間ということで我々は実際にはなにを意味しているのだろうか、そして、差異をつけて表現するにはどうしたらいいのだろうか。時間の系列、複合的空間という観念には、唯一無比であることが一つの意味として含まれている。というのも、各部分は互いを排除し合うからである。しかし、系列が一つの連続した全体としてとらえられ、その成員間の関係が系列の統合によって固定されない限り、部分は排除し合わない。この統一がなければ、回帰してきたときの点と最初に与えられたときの点とが区別できないことになる。そして、こうした統合というのは、どこまで互いの排除を否定することになるのだろうか、とどこまで行っても自問することになる。

 

 しかし、この問題をやり過ごしたとしても、ある系列の相互排除が絶対的な唯一無比を生みだすわけでないことは明らかである。系列という観念には、内的にはもとの系列と切り離すことのできない無数の系列が存在しないとほのめかすようなものはなにもない。観念を越えようとはせずに、ある系列を、他の可能な系列から区別し、記述によって確定性格づけることがどうすれば可能であろうか。「これ」といっても、「これ」は<これ>の領域以外では排除を行なわないから無駄なことであるし、「私の」といっても、あなたのものと私のものとが衝突するのは<私の>ものにおいてだけであるから、これも無駄なことである。その外側では無関心で、「私の」という表現はある世界と別の世界を区別したりはしない。もし系列そのものに注意を払い、その外側を見ず、その性格だけを考えることに限るならば、そこに含まれているものは無数の主語の共通の財産であり、それぞれの世界に存在し享受されており、なにものによっても占有されていない一般的所有物となるだろう。

 

 §22.観念の総合に判断を求めようとする試みは、再び出口のない状況に我々を追い込んだ。どれだけ希望が薄かろうが、我々は、判断は、一瞬間に限られるものではない現前において直接に出会われる実在、時間と空間においてあらわれる実在へ向けて観念内容を指し向けることである、という教義に立ち戻らなければならない。時間的な出来事であること、空間における現象であるといった性質によってではなく、与えられたものであることによってそれは唯一無比のものとなる。それが唯一無比であるのは、ある性質をもっているからではなく、それが<与えられたもの>であるためである。我々の系列は、直接に接触点をもつのだろうと、あるいは間接的に接触点と連続したところで接するのだろうと、実在と関連をもつことによって排他的なものとなる。多分、これを次のように、つまり、実在であるのはただ「これ」だけで、観念は「これ性」に関する限りは十分うまくいくが、決して「これ」を与えることはできない。恐らくこれは難解な物言いであり、勇気と忍耐力を持って戦っていかねばならない困難を告げている。

 

 §23.我々に与えられるすべてのもの、あらゆる心的出来事、感覚であろうが、イメージであろうが、反省であろうが、感じ、観念、情動であろうが--現前することのできるあらゆる可能な現象--それらは「これ」と「これ性」の双方をもっている。しかし、その唯一無比、特異性の性質は前者からくるもので、後者からくるものではない。もし我々が存在と内容とを区別し(第一章§4)、一方に存在するという<こと>、他方にそれが<なに>であるかを置くと、これ性は内容に分類されるが、これはそこには属さない。それは私の直接的な関係、感覚される現前における実在の世界との直接の出会いの単なる記号に過ぎない。私はここでは「これ」がどうやって存在と関わっているのか、それがどれだけ実際の事実を有しており、どれだけが単なるあらわれに過ぎないのか、現実に<存在する>のか、<私にとって>だけ存在するのか、については問わない。そうしたことを別にしても、少なくとも我々が実在との接触において唯一無比を見いだすこと、それ以外の場所では見いだせないことは十分確実である。現前とともにあらわれ、我々が「これ」と呼ぶ特異性は与えられたものの<性質>ではない。

 

 しかし、他方、これ性は内容に属し、空間や時間におけるすべてのあらわれの一般的な性格である。これ性は、もし望むなら個別性と呼んでもいい。我々に与えられるものは、第一に、空間や時間における他の現象との複雑で細部にわたる無数の関係によって取り囲まれ巻きこまれている。内的な性質においてその区別をし、ある程度進めることはできるが、窮め尽くしたと確信することは決してできないだろう。そして、空間や時間における構成要素の内的関係は再び非限定的なものとなる。我々は決してその底にまでたどり着くことはできない。この細部は否応なく我々にあらわれる。我々はそれを隈なくあるがままに知覚しているように思うが、それをつくりだすことも変更することさえない。この細部がこれ性をつくりあげている。*

 

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 しかし、空間や時間におけるそうした個別性、そうした排除的性質は、結局の所、<一般的な>性格に過ぎない。それは内容であり、存在を与えるものではない。それはある性質を示しても、事物は逃してしまう。これから抽象されるのは単なる観念であり、これを離れては、周知のように観念は唯一無比に達することはできない。出来事が有するこれ性をどれだけ積み重ねても、系列のようにまったく同じ出来事の存在を排除するわけではない。そうした排他性はすべて種類分けに属するもので、その種類分けだけではそれだけのものでそれとはなり得ない。

 

 我々が与えられたものを分析し、主語として「これ」を置くようなあらゆる判断では、真の主語は観念ではない。「これ」を使うことで、我々は観念を<使用>しており、観念は普遍的であるし、そうでなければならない。しかし、我々が<意味し>、表現しようとして失敗するのは、唯一無比なものとして与えられた対象を指し示すことである。

*1:*こうした性格の把握には時間がかかり、観察の時間がいくらかでもかかれば、それによって生みだされるものも変わる、という反対があるかもしれない。しかし、この難点はすべての観察において生じるものである。我々は、第一に、事物は、それを識別できない限り、異なったものとは認められない、と仮定している。第二に、我々の変化と対象の変化を区別することのできる能力を仮定している。我々の気まぐれで対象から脱線してしまう、あるいは、対象そのものが変化してしまうのでない限り、同じ対象はより深く観察されると仮定している。私はこうした仮定が適切なものであるかどうかはここでは問わない。しかし、ついでではあるが、内省において我々が現在のあるいは過去の心の状態を調べてみることは、その形を変えるかどうかについては疑問を呈しておこう。同じ問題に別の場所で直面することがないなら、両者を互いに排他的なものととることはなかろう。というのも、外的現象の観察も同一の難点のもとなされるからである。もし、内的事実が現在であり<かつ>過去<である>ことが可能ではないなら、外的な事実も同じように制限されているに違いない。二つの種類の観察は、本質的に異なっていはない。外的事実は完全に固定されているのではないし、内的事実が完全に流れのなかにあるのでもない。