ブラッドリー『論理学』27

 §24.ここで我々は厄介な問題に行き当たる。読者は我々のこれ性についての考え方を受け入れることに同意してくれただろう。我々の用語では空間や時間における相対性、別の言葉で言えば個別性しか意味することができず、内容を越えでることがないことには同意してくれよう。そして、我々は普遍的でしかない観念をもつことになる、という結論を受け入れることだろう。しかし、「これ」を使うことで、我々は<もう一つの>観念をつけ加えるだけだと異議を唱えるかもしれない。我々は現前する実在との直接の接触という観念をもち、この観念が「これ」で意味されているものであり、我々の分析判断において主語となる観念を性質づけるものである、と。

 

 確かに、そういうことであれば、事実への参照は、不可避的にそして常に判断からはこぼれ落ちてしまうだろう、と我々は答える。再び我々は支えを失い、仮言的以上には進めなくなる。しかし、提起された問題を捨て去るには及ばない、というのもそれは、微妙な反省を必要とするが興味深いことに導いてくれるからである。「これ」という観念は、他の大部分の観念とは異なり、判断におけるシンボルとして使用することはできない。

 

 第一に、我々が観念をもっていることは確かである。実際、我々はそれを否定することはできないし、否定する際にも実際には観念を使ってしまっている。系列における排除の観念、これ性の他にも、我々はまた実在への感覚による直接的な関係についての観念をもっており、そうであるなら我々は「これ」をもつことになる。我々は決してなくなることのないこの直接の現前から現前という観念を抽象することができる。そして、現前は、内容に関わることではなく、あらわれの性質とも呼びがたく、内容の変化の只中で同一な、内容とは分けられ区別されるようなものと認められるのである。かくして、観念的に固定された「これ」は普遍的なもののなかでも普遍的なものとなる。

 

 §25.しかし、その類似性にもかかわらず、それは通常の観念とは非常に異なっている。思いだしてもらいたいが、観念はシンボルとして使用される(第一章)。「馬」という観念には(i)私の頭のなかのイメージの存在、(ii)その全内容物、(iii)その意味がある。別の言葉で言えば、我々は常に(i)それがあるということ、(ii)それがなんであるか、(iii)それがなにを意味するか、を区別している。最初の二点は事実に関わっている。三番目のものは事実には属さない普遍的なものであり、存在との関わりなしに考えられ、実際の判断では他の主語に差し向けられることもある。

 

 「これ」という観念は顕著な相違点をもっている。現前する実在として区別し、与えられたものの知覚や感じ、そこにおける現前に注意を向けることが我々の語の意味として認められる。現実に目の前にあるものの内容には一切目を向けずに、それを観念的に熟視するのである。

 

 しかし、判断をしようとするとき、<別の>存在から切り取った形容をどうやって当てはめられようか。ここにおいて我々は行く手を阻まれる。というのも、そうしてつくられた判断はどんなものでも間違っているに違いなからである。他の事実は、<それがあること自体>で与えられたものを変えることなしに現前することはあり得ない。それは与えられたものをより広い現前の一要素に格下げするか、存在から完全に与えられたものを取り去ってしまう。所与は消え去り、それは観念も持っていってしまう。我々はもはや観念をもっていないので観念を叙述することはできないか、あるいは、まだもっているなら、それを支えているものが、我々が示したいと思っている他の事実を排除することになる。