トマス・ド・クインシー『スタイル』2

 この一般的な傾向は多くの仕方で働いている。しかし我々の直接の目的であるスタイルに関わるものである。こうした公準を実際に実行できる国とて他にはないが、より決定的な国民の心性は本の<実質>を最高の<性質>とするだけでなく、それらは異なったもので互いに切り離しておけるものだとするのである。こうした傾向に衝撃を与えるのは、ある場合には実質と性質とは解き難く絡み合っており、こうした粗雑な分離を許すものではないことについての否応がなく神秘的な感覚であるに違いない。一方は他方に埋め込まれ、もつれ合い、混合していて、ある意味そうした大雑把で機械的な分離に公然と抵抗している。だが、二つの要素を切り離してみる傾向はいまだ優勢であり、結果として、スタイルの完成を過小評価する傾向がある。実際のところ、英国は、文学の盛んな国としては、美しいスタイルの与える影響に対して感受性が鋭くないのだろうか。そんなことはない。その影響について無感覚であることはできない。よく知られた歴史の事実を見れば、——つまり十七世紀と十八世紀を通じて英国が雄弁術を<独占的に>開拓していったことを思えば——我々にはスタイルについての特殊で高度な感覚があると仮定されよう。フランス革命以前は、英国を除くキリスト教国では、宗教関係以外での修辞の実際的経験はなかった。例えば、よく練り上げれらた雄弁や公開される法廷での雄弁、演壇での民主主義についての雄弁など、どんな形であれ説教壇でなされるのではない世俗的なレトリックである。少なくとも二世紀の間を通じ、英国ほどスタイルのもつ善悪にわたる力のことを常に意識していた国はない。しばしば、ある男が群集の恥ずかしさや楽しさに訴えかけることで、なにもないところから聞き手の情念に抗し難いような魅力を感じさせることがあっただろうし、重大な問題がその扱い方によって打ち棄てられたりしたこともあったに違いない。そうした結果はスタイルの相違から生じるのではなく、煽動家が用いるお話からくるのであり、それ故、よく調べればその内容はつまらぬものだと証明されるにしても、彼の勝利は内容のお話のおかげでもたらされたのだと言うことはできない。そういうことも可能ではある。しかし、しばしば二人は同一主題——例えば奴隷貿易の事実——について語り、一方が話しのもって行き方の妙によって、無味乾燥した事実に生気を吹き込むやり方、例のあげ方、事柄を感情と結びつけるやり方をうまくすることによって、聞き手に感情の激しいうねりを残し、他方は、細かな点に至るまで同じ事柄を扱いながら、一瞬の共感さえ引き起こすこともなく、記憶になんの印象も、心に染み一つさえ残さないことがある。

 

 それ故、英国国民が二世紀と四分の一の間(つまり、ジェイムズ一世治下の最後の十年以来)社会生活のあらゆる場で常に雄弁に接していたのに比例して、スタイルの影響を感じる機会があったに違いない。しかし、感じるということは意識的に感じることではない。多くの人間はあるものの魅力を別のものの結果に帰してしまう。多くの人間は構成の妙に魅了されても、強く働いていたのは主題だとしてしまう。スタイルと内容とが相互貫入していることを心に留めている最も鋭敏な哲学者でさえその比率をどう振り分けるかは困難であり、それはちょうど夜明けの光が、どれだけ闇を追いやる天上の光の美しさにあるのか、あるいは光と闇とが入り混じる茜色にあるのか判然としないようなものである。

 

 であるから、スタイルが常に働き現実に影響を与えているような国では、原因を原因<として>認めることができないというのもありがちなことである。そして、聞き手の判断を誤らせる障害を別にしても、話し手の実践を変化させてしまうような障害もある。演壇ではよいレトリックも書物では悪いことがある。雄弁術でも、スタイルの法則は一般的基準とは全く異なっている。議会では、そして、同じ理由で新聞においても、意図することを繰り返すのは美徳である。同語反復は長所になる。実質的には同じ意味であることを、真理の希釈を言葉を変えて行うことは時には必要である。入り組んだ教義を圧縮した一語で言うことに満足する者がいたら、それは狂人であり、その教義に依っている限り<自殺者>と見なされよう。鏡を使って太陽の光線を人の眼に投げかける少年のように、大衆の心を強く掻き立てるには、あらゆる可能な角度で光の反射を確かめてみなければならない。知的なコミュニケーションには、どんなものにでもそれ特有の強さと弱さがあり、独特の障害があり、それを補う独特のやり方がある。書物が有利なのは、いま読んでいる場所に関係する前のページに返れることである。だが、演説の場合は返ることが不可能で、文章は生れては消え、語り手も聞き手も共にスタイルについては漠然とした関心しか払っておらず、抽象的な議論の厳正さからも程遠い。重量のある主張は書物では許される簡素さや簡潔な論理的文章よりは長い間眼にさらしておくのが望ましい。知性が真理を掴み取り、その意味を自分のものにする時間がなければならない。ボアが獲物を呑み込むときに用いるようなある種の潤滑油があって、驚くような、あるいは複雑な新しさに親しむためにはそれが必要である。知性は見方を様々に変えることによってそれを成し遂げる。直接眼の前に置いてみたり、斜めから見てみたり、抽象的に、そして具体的に見てみる。こういう風に物事を扱うのは正に技術的規則であり、スタイルのもつ気ままさでなく、気紛れな状況におけるスタイルの厳正さと捉えるべきである。そして、公衆の前での表現の真の技術とは、実際には同じことを繰り返しているに過ぎないのだとしても、なにか新しいことを言っているように見えるよう工夫すること、和音から変奏を生み出すこと、若干の差異を際立たせることによって実質的な同一性を覆い隠すことである。