ブラッドリー『論理学』29

 §28.我々は知覚にあらわれる実在を指し示すことによって観念や単なる普遍から逃れる。かくして、我々の主張が唯一無比に達しない限りそれは事実とは対応しない。かくして、分析判断は我々にとって確実なものとなったように思える。しかし、§19で尋ねた問題に立ち返り、総合的判断に向かい、直接的な現前の範囲に収まらない空間と時間を扱うと、一見するところ我々はうまくいかないように思える。我々が得たものは、それを越えたあらゆるものを代償にしたものだったことがいまや明らかになる。我々の空間と時間のあらゆる系列は実在と接する唯一つの点を参照しなければならないことになろう。この点においてだけ、時空間の内容は事実のしるしを受けとることができる。しかし、この関係を確立することは不可能であるように思える。

 

 我々が知るこうした総合的な主張の内容は普遍的なものである。それは他の無数の系列において真実であろう。この非実体的なつながりは、それだけでは、どの点においても現実に接することはない。他方、実在の源泉である与えられたものは、こうした支えるもののない連続には一切関わりを持たないように思える。そのシンボル的内容は、現前の内容と両立し難いために、直接に現前に当てることはできない。そして、もし我々がもう一つの現前をもつことができないなら、普遍が実在に達することができるような事実はどこに存在するのだろうか。

 

 §29.我々は以前の議論で得た結論に我々の難点を追い込まなければならない。我々は、知覚にあらわれた実在は、そこにあるが<ままの>実在と同一ではないことを見た。もし実在が「これ」でなければならず、我々に直接に接するものでなければならないなら、我々の取り出した「これ」がすべての実在であり、「これ」を越えた実在など存在しないと結論づけることはできない。恐らく、現前の内容を除いては、直接に実在を手に入れることは不可能であろう。言ってみれば、我々は穴を通してしか実在を見ることはできない。しかし、それを見て我々が確信するのは、穴の向こうには実在が無限に存在するということである。もし「これ」を唯一無比のあらわれと理解するなら、ある意味、この性質のなかに実在が閉じ込められるのであるから、「これ」は内容のある部分でも、実在の性質でもない。これ以上の議論は形而上学に属することで、ここではありのままの結論で満足せねばならない。実在は我々にあらわれるものである。あらわれは一般的なものではなく唯一無比である。しかし、実在そのものはそのあらわれがそうである意味で唯一無比では<ない>。

 

 実在を我々は自律的で、実体をもち、個的なものだと見越していた。しかし、現前のなかにあらわれると、そのどれでもない。内容全体が相対性や形容的なものに汚染され、そのすべての要素もまた形容的なものである。事実として与えられているが、そのすべての部分はなにか別のものを指し示す存在として与えられているのである。所与のあらわれの時間における絶えまのない消滅そのものが自律的だという主張を否定している。そしてまた、あらわれている間でも、いわば、その境界は非実在の侵入に対して決して安全に守られてはいない。空間や時間において、その外側は時空を越えたものとの関係によってのみ事実となる。それが排除するものとの関係によって生きているわけで、境界を越えて他の要素に加わり、その要素を自分の領域内に誘いこむ。しかし、その縁はほころびがあり揺らめいているために、外に向かう、内に向かう流れは不安定で、安定は既に失われている。自身を越えたものについての形容となっている。それ自体のなかにはどんな安定性もない。時間や空間における堅固な地点は存在しない。それぞれの原子は単に諸原子の集合であり、それらの原始も事物ではなく、消え去りゆく諸要素の関係である。究極的なもの、個的なものとして示すことができるのはなんなのかと問われても、なにも答えることはできない。

 

 実在は現前にあらわれる内容と同一視することはできない。それは永久に現前を越えていき、我々は至る所を探し回る権利を持つだけである。