トマス・ド・クインシー『スタイル』4

 名前をつけるときのように、言葉の使用において殆んどの階級は両極端の圧力の間にある。一方には、粗雑、不注意、不完全さがあり、他方には見せかけの洗練と途方もない野心がある。作家は、どんな言葉を使うにしても、常に危険な立場にある。名声欲から、あるいはより高貴な、共感を得たいという切望から作家になろうとする無数の人間のなかには、言葉づかいの新しさによって特徴を出そうとする者が常に数千はいるだろう。主題の重要性で聴衆を得る希望のない者は、言葉をいじることによって詭計を仕掛けるしかなかろう。どんなことをしても注目を得たいというなら、言葉の純粋性や簡潔さを気にしてなんになろう。さて、女性の大部分はそうした不幸な偏向を被っていない。上品な仲間がいたり、まあまあの教育を受けていれば、彼女たちは生国の言葉を必要なだけの真実と簡潔さで語るだろう。そして、彼女たちが職業的作家ではないなら(フランスや英国でさえほんの僅かしか作家たり<得ない>)、女性というのは常になにかしら自分たちの言葉に対して忠実な立場にいる。女性は興奮しやすく、感情に活気があるので、刺激を受け感受性が傷つきやすい。主にこうした場合に彼女たちは言葉に効果的なものを求める。そして、真の興奮にあるときのように、なんの詭計も見せかけもなしに純粋な言葉づかいが確実に保証されるときはない。本当のなまな状況は常に本当に自然な言葉を保証する。小説の人工的な場面や、詩で感情に湧き上がるものもないのにうまくやろうとするときのように、虚偽の感情を使うときの女性作家は、自分の疲れ切った感受性を支え、読者の薄くなる関心を取り戻すために大仰な言葉を使うことはある。でも言いがかりに対する憤り、嫉妬からくる恨み、信頼を裏切られたときの怒りにあるときに女性が言葉を気紛れにいじるような余裕はない。強い本当の感情が見せかけの感情への誘惑をすべて締め出してしまう。

 

 かくして、ビザンティンの女性のギリシャ語の純潔があった。彼女たちの気紛れは別の方向に向かい、言葉以外のところには捌け口を見つけた。かくして、女性の英語の純潔性もある。今日、我々の言葉を生まれたままの高貴な姿で、いきいきとして言葉づかい正しく、その表現において快活であって、繊細でありながら引き締まった構成をもったものを読みたいなら、郵便の鞄を盗み、女性の手になる手紙を全て開いてみるべきだろう。四通のうちの三通は、余暇があり、文通に最も関心をもつ女性たちによって書かれたものだろう。この階級の女性たちは、ヨーロッパの他のどこにおいてよりも知性と教養と思慮深さがある二十五歳以上の未婚の女性で、増えつつある(注1)。この女性たちは、単にその性格の高貴さによって、生まれにそぐわない環境に落着くよりは、夫婦としての親としての生活を断念することを選んでいる。こうした犠牲に耐えることのできる心の強い女性は深い感情をもって考え、自分自身を(あまりに本の影響を強く受けすぎてないなら)自然な上品さでもって表現することが期待される。同じ女性が、公の場に出されたとき、ひどく気取って書くこともあるかもしれない。自由で自然な思考の動きが、まねするべきではない人工的な型を選び、順応することによって歪められるかもしれない。だが、手紙では彼女たちは自然に備わった長所をもって書いている。一方では、公の眼にさらされるのを意識することから否応なく生じる拘束やぎこちなさに歪められることがないし、他方、彼女たちと文通相手の間には深い共感が保たれていて、上の空になったり、無関心が入り込む余地はない。

 

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 いかにも英語らしい英語ということでは、この国のどんな所でもみる機会のある、大英帝国の教養ある女性——とりわけ、性別に左右されることに疑念をもつ未婚の女性という興味ぶかい存在——の多くのすばらしい手紙や(古のコンスタンチノープルのように)大英帝国の子供部屋が、古き良き英語の保管所なのである。だが、我々は英語の良さを語るときに、人間的、民衆的な点について言うが、歴史や哲学といったより高度な形式におけるような、言葉の異なった使い方があることを忘れるべきではなく、またそうしたものは慣習的なものであるべきでは<ない>のである。実際はどうで<ある>かについては、異教ローマでもそうだったように、我々のうちで古い言い回しの純粋を保とうとするのは、既に述べたような理由によって、<女性と地位のある人間>である。英国で大きな力をもつものにはこうした傾向のあることが多く、彼らは全てにおいて一方的な好みをもち、昔からの英語を愛してそれ以外は我慢がならず、ロード・チェスターフィールド以降に読むべき作家はいないと明言している。国民的な嗜好との不運な衝突から、また部分的にはその道徳原則のだらしなさから——しかし、彼らは自分の考えよりずっと悪くしゃべってしまうのである——不正に遇せられているこの教養ある貴族は、高貴な生れの紳士らしく、気軽で無頓着な優雅さをもって書く。だが、そのスタイルは特別なものではなく、常にその階級に特有のスタイルだったのである。貴族が書斎派の法律家と交じり合うことが認められてから、そして、精神的には貴族である学識ある者たちからの影響の後も、ロード・チェスターフィールドの口調は古き貴族階級の、洗練と礼儀正しさに満ち、衒学的な、或は学問的厳正さといった堅苦しさのない口調で、tanquam scopulumにはどんなinsolens verbumをも避けるというカエサルの規則に従っていた。実際、こうしたことを通じて、英国の貴族の気遣いは常になされている。他の性質は個々人の気質によって異なる。だが、そのすべての世代にわたって、この階級の栄誉となるのは学問の正確さと職業的な特権だった。大きなパブリックスクールは民衆にも開かれていて、昔の貴族の十人のうち九人は通ったが、彼らが民衆の通俗的なことに染まっていないとは言いかねることがしばしばである。実際、<そうしたこと>の避けられない別の原因がある。というのも、最上階級の貴族と最下級の民衆の間には、へその緒で結ばれたような密接な、乳母を通じてなされる結びつきが常にあるからである。乳母や侍者はどの階級においても同じ所、最も普通には農民からきている。彼らは、最も高い所にも最も低い所にも、どの家庭にも同じように、怒りや侮辱をあらわす粗野な土地言葉をもちこむ。例えば、五、六年前、ある小説がロンドンに出回り、侯爵家の二人のまだ若い令嬢の手になる子供らしい仕事だということがどこからともなく知れ渡ったが、その登場人物の一人が自尊心から、私だって「ビール粕じゃないわよ」と大衆的な表現を使うのも、このことを省みれば驚くに足りないだろう。当然、その父である侯爵はブリジェットのように二人の若い令嬢の言葉づかいを特に直そうとはしなかったのである。欠点でもあれば長所でもあるが、高い階級の言葉は、その学問的様式への反動から常に簡潔さに向い、土地言葉を理想的なものに見がちなのである。この点、また他の多くの点において、洗練された英語と洗練されたローマの言葉に密接な類似があることは驚くべきことである。アウグストゥスカエサルは人工的な形式や大袈裟で回りくどい修辞をほとんど使うことができず、それほど理解することさえできなかった。しばしば廃れてしまっている言葉の古風な使い方も、彼にとっては嫌悪感を催させるものだった。実際、言葉の選び方やその装飾から言えば、アウグストゥスは鈍物だった。彼の三十軍隊が襲い掛かってはこれないのだから、真実ははっきり言おう。多分、彼とホラティウスを固く結び付けているのは、曖昧さに対する共通した過度の敵愾心である。実際、そのことによって、両者の知的欠点、両者の趣味の良さ、ある強度のなさが結果するのである。

*1:

(注1)「増えつつある」——だが、フランスでは違う。この国の社会における道徳を顕著にあらわしているのは、女性の尊厳については低い声でしか語らないことで、我々の間に見られるようなある程度の年齢を加えた未婚の女性は、<老少女>という侮辱的な名で呼ばれていて、このことはほとんど知られていない。性の相違がいかに大きな犠牲を要求するかはこの事実からもわかろうというものである。