ブラッドリー『論理学』31

 §32.しかし、そうした連続性とその結果である所与の「これ」の拡大は、他の観念的構築と同じく、同一性に基づいている。後に見るように、推論は常に、識別しにくいものの同定にかかっている。性質の同一性は真の同一性を証明する(第二巻第一章第六章を見よ)。ここでは、同一性は二重の形式をもつ。(i)第一に、シンボル的な内容は「これ性」を含んでいなければならない。(ii)第二に、それは「これ」といくつかの点を共有していなければならない。

 

 説明しよう。(i)我々が知覚と結びつける観念は空間にあるなにかであるか、時間における出来事の観念でなければならない。それは個物としての特徴をもち、無限の細部と限りない関係についての一般的観念をもっていなければならない。これは与えられたものの内容と同じ種類であることを我々は知っている。両者の記述は一にして同じである。両者は共に「これ性」をもっており、それゆえ要素は同一<であることができる>。

 

 (ii)しかし、そこにとどまる限り、我々はまだ普遍の世界にいて、そこではどこかで現実に触れ、知覚にあらわれる事実に出会う<かもしれない>が、確実にそう<なる>わけではない。我々は、一方においては、現前する内容を越えていくことを望んでいるが、他方では、この内容で観念的系列と結びついてもいたい。それらをしっかりと結びつけるような環を我々は求めている。

 

 その環は両者において同一な地点、その性質が同一であるような地点を確立することで見いだされる。「これ」には、時間や空間の系列における(あるいは両者にわたる)複雑な細部が含まれており、それをc.d.e.fと呼ぶことにしよう。観念の側には個物の系列a.b.c.dが含まれている。c.dの同一化によって知覚c.d.e.fが観念的空間、時間のa.bにまで拡がり、総合的な構築によって全体が一つの事実a.b.c.d.e.fとして与えられる。全系列が実在を指し示すこととなり、唯一無比の現前と結びつくことで、それ自体唯一無比で世界に同じものが二つとない出来事や空間の系列ができあがる。かくして、推論により、総合判断を通じて我々は与えられたものを超越するわけで、次の巻では推論の性質とそこにある間違った仮定をより明確に説明しなければならない。

 

 §33.心的病理が例となろう。主体、あるいはこう言った方がよければ、自我が二つに分裂したように思える事例がある。一方があらわれているときには他方は隠れており、それぞれの記憶は別々である。両者の過去や未来は触れ合うことがない。これに関して呈示され、十分だとも思える説明が我々の主題を例示してくれよう。<現在の>自己が異なっているために、過去と未来の自己も異質なものである。一方の観念体系が他方の観念体系とつながる地点をもっていない、あるいは、つながりを排除するような地点をもっていないために、一方は他方に属している現在を観念的に拡大することが決してできない。現前に与えられる病的な感情や病によって歪められた知覚は同じような特徴をもつ観念のグループに結びつく。このように色分けに失敗した観念の領域は現在の知覚との連続的な関係を確立することができないと思われる。*

 

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*1:*ロッツェ『ミクロコスモス』I.371頁参照。